反出生主義を巡って考えたこと

反出生主義を巡る思索の記録。2019年12月から2020年12月にかけて断続的にツイートしたもの。付録的に「親ガチャ」について2021年9月にツイートしたもの。


『現代思想』2019年11月号の反出生主義特集

ベネター『生まれてこないほうが良かった』を読んで改めて考えたいのだが、直感的に。

苦と快の認識と評価をそれらが生じた瞬間において捉えるのか、時間(経過)や回顧/想起の視点を入れるのか。それは苦と快のグロスやネットの量にも効いてくる。苦があったからこそ生じる快もその逆もあるし、後の快/苦で上書き又は低減される苦/快もあればそうではない苦もある。残響を持たない苦/快でも想起した時に強度を持つものもあれば持たないものもある。きっかけがなければ想起されないものもあれば、頻繁にまたは継続的に想起されるものもある。苦/快の想起により新たな又は追加的な苦/快が生じ得る。

いずれにせよ、時間の経過を入れるのかや、どの時点での認識、評価なのかということ。これは既存在の者はもちろん、未/非存在の者の苦/快をどう評価できるのかに関わる気がする。

苦の不在は善なのか。共感の条件が欠けることをどう考えるか。苦(痛)の経験とそれが可能にする想像力がなければ他者への共感は困難になろう(少なくとも大きく減殺されるだろう)。また、苦(痛)の知識がありそれを回避しようとすることが快を得る条件の一つと言える。以上を考えた時に苦の不在は果たして快ある人生、社会を導くのか。そもそも乳児期~幼児期は欲求を我慢すること、満足を延期することを学ぶ。そうしてある意味でマゾヒズム的な快の得方を学習するのであるし、欲求ではなく欲望も生じてくる(それがより大きな快もより大きな苦にもつながる)。だとすると苦の不在は乳児期からの脱出を不可能ならしめるとも言えないか。

人生において苦は避けられないし、快は生きることに意味を持たせるある意味擬制でしかない。そういう意味で「生まれてこない方が良い/良かった」ということは直感的に理解はできるのだが、生まれるべくして生まれる、ならば苦(痛)は少ない又は支配的でない方がいいということとすんなり繋がらない。

もちろん反出生主義は子を作る、生殖・出産するという人為/意思に関わる道徳的立場なので、生まれてしまった「後」、生きてしまっている「今」からの視点と噛み合わない面があるのは当然ではあるが、その交差点にある苦ということを考えるとやはりすっきりしない。また、人間における生殖・出産は本能/自然というものでは説明できないものであり、意思が働かざるを得ない(本人の意思であれ他人の意思であれ)。そして、「子どもが生まれるのはいいことだ」あるいは「自然だ」という言い方もまた自然的たり得ない。だから反出生主義という立論も可能になるのだが。

ベネター『生まれてこないほうが良かった』

やはりベネターの議論には同意できない。そもそも森岡正博さんのツイートや『現代思想』11月号を読んでいなかったら読もうとは思わなかったが(少し前の同誌に紹介論文があり気にはなったが)、思いついたことをメモしながら読んでいる。

なぜベネターの反出生主義が気になり思考を巡らすのか自体も我ながら興味深くはある。自分自身については「生まれてきて良かった」か「生まれてこないほうが良かった」かと言えば後者寄りで考えがちなところはあるのだけど、「この私」あるいは一人称の視点を離れる反出生主義には違和感があるのだ。

反出生主義を敷衍したメッセージは、
「あなたは苦しいのでしょう、迷っているのでしょう。でも世界は良くなっていきます、人間抜きで。よって、良くなった世界をあなたやあなたの子が見ることはありません、原理的に。だからあなたやあなたの子にとっての苦はなくなりませんが、その苦の存在が世界が良くなる理由なのです」
となろう。苦が大きくとも小さくとも(そしてたった一つでも)「それが害悪だ」という答えに集約し「始める価値のなかった生」だと断じるのは無責任というか逃げのように思う。

生まれてこない方が良かった、子どもを作らない方が良かった。生きたいのか、子どもを作りたいのか/作りたかったのか。その意志あるいは欲望は何に拠るのか又は何のためなのか。反出生主義はこれらの声に応答できるのか、これらの声から発しているのか。

回顧的対展望的。生まれてこない方が良かった対生まれさせない方が良かった/良い。誰にとって生まれてこない方が良いのか。これは反実仮想としての非在の主体だが、誰が苦を感じないのか。「私が苦を感じないで済んだ」ではなく「苦を感じる私が存在しないで済んだ」ということになる。反出生主義は未存在者に対して果たすべき義務を立てるが、その義務が果たされると未存在者は非存在者になる。即ち非存在者に対して義務が果たされたことになるのだが、非存在者に対する義務というのは不可能な義務なのではないか。

どの時点で、誰の視点で快/苦、利益/害悪を判断・確定するのか。瞬間瞬間に孤立させて判断するのか、変化する量・強度を考慮に入れるのか。ベネターは前者だが、結局は人生総体で総合的に判断せざるを得ないし、特定時点で「決算」してもその後のことは予想はできても確定はできないのではないか。単一の苦で人生は害悪と断じるベネターに対して、その決算も回顧的に「修正」され得る。そして人生総体で判断するということは、主観的な判断は原理的に不可能ということになる。死者は自分の人生をもはや判断できない。かと言って客観的に判断しても確定は不可能だ。結局残るのは一人の人が生きたという事実と本人以外の人にとってその人生がどう見えたかということだけ。生まれてしまうことが害悪だと確定できる視点は存在しない。

苦のない人生はあり得ないが、その苦がなければ生きられない。苦を感じることができなければ害悪の予測・関知能力が育たないため、最初の苦の瞬間にその苦を感じないままに死ぬことになりかねない。逆にどんな小さな快もない人生はあり得ない。たとえ小さくともその快が喜びとなることはある。ベネターにおいてはポリアンナ効果が否定的に評価されているが、主観的に良い人生だと思えることは悪いことではない。そのことを利用する者がいない限りは。

ベネターの反出生主義には合理的計算、予測、制御の思想も感じる。少しでも苦のある人生は悪いものだと評価し、それにより生まれてくる子の人生は悪いものであると予測する。これは論証ではなく価値観を生まれ得べき子に押し付けることではないのか。これを、非存在に価値観を押し付けることは不可能だというレトリックで回避してはならないだろう。生まれさせたら幸せにする、少なくとも不幸にならないように努める義務はあるとは言えるが、生まれる前の、作る前にその存在の(というか非存在の)幸/不幸を判断する義務も権利もないのではないか。

そうすると、子を作る/作らない、生む/生まないについて義務はあり得ない一方で、存在の価値について判断しない、決定しない義務はあると言えよう。生まれる対生まれさせる。自然的事実/結果対意志/原因。各々前項は子の視点であり、後項は親(あるいは親族、コミュニティ、社会、国家)の視点。かと言って客観的に判断しても確定は不可能だ。結局残るのは一人の人が生きたという事実と本人以外の人にとってその人生がどう見えたかということだけ。生まれてしまうことが害悪だと確定できる視点は存在しない。

苦のない人生はあり得ないが、その苦がなければ生きられない。苦を感じることができなければ害悪の予測・関知能力が育たないため、最初の苦の瞬間にその苦を感じないままに死ぬことになりかねない。逆にどんな小さな快もない人生はあり得ない。たとえ小さくともその快が喜びとなることはある。ベネターにおいてはポリアンナ効果が否定的に評価されているが、主観的に良い人生だと思えることは悪いことではない。そのことを利用する者がいない限りは。

どこまであからさまか又は意識化されているかはともかくとして、子は道具的/手段的なものとして生まれさせられざるを得ない。子の存在そのものが目的として立ち現れることは困難。唯妊娠し唯生まれるということは稀で、どこかで意志が働く。生まれてくるから自ずと生むということはほとんどない。私の考えでは、全ての人生は害悪であるという論拠からの反出生主義を肯定することはできないが、なぜ子どもを生まれさせるのか、作るのかという視点から直ちに反出生主義を棄却できる論拠はまだ判然としない。既に性交と生殖の因果関係の知識を持ち、生殖技術も手にした人類にとって。一つ言えるのは条件付きでしか愛せない子どもは作るべきではないかもしれないということだが、その場合でもその子どもはその親子関係から離れ無条件に存在肯定される場を得ることはできる(もちろん虐待に遭ったり親子関係の呪縛に長く苦しんだりという場合もあるのだが)。

子どもを作る(または判明した妊娠を継続する)理由・動機に関わらず出生後その理由・動機は変化し得るものだ。遺伝子検査・操作のような出生前(さらには授精前にまで至り得るが)の強い条件付けについては反出生主義を適用し得るかもしれない。但し、反出生主義でなければ規制できないものではない。そして、生まれさせられた意図が子どもの生涯を貫く訳ではなく、確率的にどうかと言うことはあるにせよ、その人生を生きることが害悪であり不幸であると出生前に決定することは不可能だ。ベネターの害悪認識とは異なるという留保付きだが、強い条件付けのケースでも反出生主義の有意性には疑問がある。

それでまた話が戻るのだが、あらゆる人生は害悪である、いかに快があろうとも必ず苦があるからだというのがベネターの立場だが、避けられない苦の存在(それが小さなものであっても)を根拠に人生を害悪と断定することはやはりできないと思う。空腹を感じなければ、暑さや寒さで不快にならなければ、痛みを感じなければ……命の危険に瀕することになる。このような生理的な苦はもちろん、例えば恐怖、不安といった苦しい感情があってこそ危険を回避したりダメージを軽減したりできる。苦は全て「ないに越したことはない」ものばかりではない。苦が全くなければ生命維持は困難だ。また、有害な苦痛、苦労というものは当然多くある一方で、苦を経なければ得られない快や利益も多い。(死以外にも)人生を回復不能な程度に悪くする苦(単発でも複合的にでも)はあるとは言え苦の存在をもっていかなる人生も害悪だとはやはり言えない。

当然ベネターはこのようなことは「人間の相のもとで」意味があるに過ぎないし過大評価されていると言い、「永遠の相のもとで」は意味がなく害悪でしかないというだろう。しかし、永遠の相のもとでは特定の指向性の神を立てない限り、有意味/無意味、有価値/無価値という評価、決定自体が無効だろう。永遠の相のもとでは存在は唯存在すべく存在し、生命は唯生まれるべくして生まれ生きるべくして生きる。意味や価値はその存在・生命にまたそれらの相互関係に内包されているものであって永遠の相のもとでは評価、決定され得ない。

人は(生命、存在は)唯在る。それは消極的又は否定的言辞ではなく端的に在るという事実性だ。偶然にかつ他ではあり得なかった仕方で在る。唯存在を肯定されるしかない存在として。反出生主義は存在を「人為的に」評価・決定したりそもそも生み出したりすること(の過剰)への警告以上ではないのでは。

インターミッション

どうしても引っ掛かるのは、反出生主義が主張されるときに誰の視点からなされているのかということ。文章上の人称ではなく、論理上の人称。

私は生まれてこない方が良かったは一人称だが、反出生主義は一人称ではなく、特定の対象を指す二人称でもない。反出生主義の名宛人は未存在の人たちであり、反出生主義が成功すればそれは非存在の人たちである。環境問題などで言われる将来世代とは決定的に違う。将来世代に私たちと同じ思いをさせたくない、同じ苦しみを味あわせたくないと言うことの処方箋がそもそも将来世代を存在させない、その存在の条件を絶つということになる。逆に言えば、私たちの苦しみは現世代でも次世代でも解決せず(むしろ厳しさを増し) 、将来世代の非存在と共に解決=消滅する。

つまり、反出生主義は一人称あるいは(特定の存在という意味での)二人称の苦しみから発しているようでいて、徹底的に三人称、時間と空間を超越したあるいは無化した位置(神とも言える)から発せられているように思えるのだ。そして、現世代にできることは子どもを作らない、作らせないことだけであり、それに対して「将来世代が苦しむことはない、将来世代は生まれないのだから」という慰みがあるだけである。

反出生主義は自死も殺人も推奨しないので「倫理的」かもしれないが、何らかの苦があるだけで生きる意味に疑問符を付ける。どんな苦しみにも意味があると言うのは、しばしば無責任であったり抑圧的であったりあるいは欺瞞であったりするが、一片の苦によって生きる意味を否定するのも飛躍だ。生まれてこなければ良かったと苦しみ続けて一生を終える人、死を間近にしてそう思う人がいるだろうことは否定しない。しかし、人の苦しみは、自分の人生の評価はどの時点で捉えるかによって大きく変わる。常に「先のことは分からない」のだ。

もちろん、「先がない」と思い詰める苦しみもあるし、その時点で命を絶ってしまう、絶たれてしまう人もいる。でも、もし生きていたらどうなっていたのかは分からない。そう、この「分からなさ」を否定するのが反出生主義であるようにも思うのだ。言い換えれば、計算とコントロールの絶対視。

反出生主義の前提は、快と苦を遍く数値化し比較し、その計算に基づいて人類の行く末をコントロールしよう、それが可能であるという信奉であるように思える。そして、苦も快も質を奪われ量に還元される。苦しみがあったから喜びがあったとか、苦が和らいだ、意味が変わったといった可能性も無視される。反出生主義は「この私」の経験から発するものではないと同時に、合理的、論理的であるようでいて特定の価値観、基準で生きる意味を判断=否定しているようにしか思えない。「別にあなたの人生は否定していない」「特定の属性を否定していない」という非差別、中立の姿勢は無邪気であれ狡猾だ。

苦しみを避けたい、脱したい、あるいはこの苦しみの意味を変えたい等々、苦しみに直面しあるいは予測、予感しながら試行錯誤するのが人生であるとすれば、様々な哲学や宗教はその答えを模索し提供してきたものだと言えるし、そこにおいて三人称の視点、時空を超えた視点が有意味な場合もある。ただ、反出生主義の仕方は思索を刺激するものではあれ、私にとっては共感できるものではないし、賛成であれ反対であれ「誤読」が危険な議論につながり得る主張であるように思う。

森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』

私は、人生をどこまで遡ればいいのかとよく考えた。各年代に後悔や忘れたい思い出があり、小学生になるより前に遡ることしか想定できない。ただ、不思議と(?)「生まれてこなければよかった」と直接的に思ったことはない気がする。ただし、「なんでこの時代に生まれたのか?」と恨んだことはある。それは時代のせいという意味ではなく、労働なり何らかの形で貨幣を得ないことには生きていけない社会、気候や環境条件への心身の耐性が低くなった上に「自己」を取り巻くストレスが生じる社会。つまり、狩猟採集・自給自足で、生き延びることを中心に考えていられた、はるか昔を無意味に羨んだ。人間に知性なんて芽生えなければよかったのになどと思ったりもした。でもこのようなことは「詮無いこと」と片付けるしかないことも分かっていた。でも、目覚めたら全部夢だったらいいのにとかこう考えているのも夢の中のことだったらいいのにとかまた詮無いことを考え出した。

どうやっても絶望しかないと思う時、事後的に見れば、可能な選択肢を視野の外に追いやり可能性の条件は正当に見積っていなかった。そして、「結果的に今こうなっている」がある。「あの時ああしか考えられなかったのも仕方がない」と「何でこう考えられなかったのか」が表裏一体のものとしてある。「程度はともかく想像できなかったことが今後起こるかもしれない。少なくとも確実な予測などできないのだから」と思う自分と、「死ぬまであと何日、何週、何月、何年のサイクルを繰り返すのか、やり過ごさなければならないのか、倦まなければならないのか」と思う自分もいる。

そういう私だから、反出生主義に惹かれる気持ち、反出生主義に救いを見出したい気持ちもわからないでもない。でも、そういう気持ちを弄び何の解決も示せないか、哲学的な遊戯に堕すか、歪な思想に燃料を供給するかする議論であるように思う。あえて言えば、哲学的思索を刺激する素材と捉えた方がいい。

反出生主義は、起点は自分の生だったとしても徹底して他世代に向かう思想。同意していないのに自分を生まれさせた前世代・先行世代への非難、次世代・将来世代を生まれさせないことによる解決。反出生主義は一見、苦を被らざるを得ない将来世代への共感があるようでいて共感の可能性を否定している。苦あるいは苦の経験を媒介とした他者との共感に意味付けはされず、他者は苦の原因。害をなすものとしての人間。そこに倫理が現れるが、反出生主義は倫理を排除している。他の存在に害苦を及ぼす、存在間で害苦を及ぼし合うのは生物界の必然。問題は過剰さ、不均衡をどう認識し評価するかであり倫理の領域になる。害苦を及ぼすことを拒否するのであれば倫理の存立条件そのものを拒否することになる。

生きることにおける苦は多くが他の存在に起因しまたはその関係性との関わりで起因する。生まれたら必然的に苦があることを根拠とする反出生主義は世界内存在性の拒否、逆から見ると世界そのものの拒否であり、関係性の拒否。反出生主義は快苦をその瞬間瞬間で孤立的に固定し、数値化し、集計し、比較する。計算的で操作的。快苦の継起や、時間経過や事後の経験に伴う評価や重みづけの変化は排除される。予測し制御することへの欲望とその不可能への苛立ちが反出生主義には孕まれている。思い通りにならない人生、求めていないのにやってくる苦。その苛立ちと絶望感が予測不可能性、制御不可能性の拒否に向かっているのではないか。不確定要素の影響を排除/無視した絶滅プログラム。

人の介入、選択が働かないで生まれる/生まれたというのみでは反出生主義に成立余地はない。子どもを作る/作らない、生まれさせる/生まれさせないという選択、意思が介在して生まれる/生まれたからこそ反出生主義が立論される可能性が開ける。しかしそこには、既に生まれた者が次なる者を生まれさせるか否か選択するという非対称性がある。その根拠(の一つ)が「〈既に〉生まれた私は/誰も生まれてこなければよかった」であることも非対称。生まれてこない方がよかったと言えるのは既に生まれた者、生まれた方がよかったと言える者は〈存在〉しない。死んだ後に自分の人生を評価することも生きた意味を肯定も否定もできない。そもそも死んだことを知らない。しかし、死後の視点を仮構的に先取りする。その視点は現在が未来に投射されたもの。

反実仮想の有意性の問題。人間が、動物が、生物が、地球が、宇宙が存在しない方がよかったは有意な反実仮想なのか。これらは偶然的かつ必然的に存在し、意志、作為が不在だった。そのようなものに対する反実仮想は誤魔化しを含んでいる。物理学的な仮定として「地球が存在しなかったならば」、生物学的・気候学的な仮定として「現生人類が存在しなかったならば」といったシミュレーションは可能だが、哲学的・倫理学的な仮定としては妄想の領域に入らないか。

ショーペンハウアーの意志/無意志と仏教の執着を断つこととの差異。前者は意志と無意志の闘争性、意志は〈抑え込まれる〉ものとしてある。ブッダ/原始仏教を反出生主義〈として〉読むと、ではなく、反出生主義〈の文脈で〉読むこと。反出生主義は仏教的には離れるべき妄執のように捉えられる。輪廻を前提としたウパニシャッドや原始仏教の反出生主義。輪廻を前提としなかったら反出生主義は導かれたのか。あるいは、輪廻が方便だったとしてその方便抜きで反出生主義は語られたのか。輪廻を否定してもブッダの哲学は成立するという森岡説に賛成するが、そうだとするとブッダの哲学に反出生主義(的なもの)は必須あるいは必然ではないのではないか。

人生は苦である即ち反出生主義ではない。人生は苦であるが苦から離れる道があるというのが仏教。ブッダ/原始仏教の苦観は苦を一切否定するのではなく、執着、過剰から生じる余分な苦(ほとんどの苦は余分な苦ということになるが)を避けるというものではないか。「もう二度と生まれない」と「生まれてこないほうがよかった」。「もう二度と生まれない」と誕生否定。「もう二度と生まれない」、輪廻または別の世界は今生を照射するための仮構なのか?輪廻を前提とすると、生まれてきたというのは「また生まれてしまった」ということになる。「また生まれてしまった」が良くないとすれば、今生に苦があるからなのか、前世で善く生きなかった自責あるいは教訓としてなのか。前者であれば反出生主義的だが、後者ならば主眼は「善く生きること」にある。

誕生肯定「生まれてきて本当によかった」は必要なのか、可能なのか。誕生肯定は瞬間的なもので不可逆的なものではないのではないか。少なくとも、仏教の悟りのような稀有な到達点としてしか果たされないのではないか。誕生否定「生まれてこないほうがよかった」も同じ。「生まれてきて本当によかった」は「でもこの人生には終わりがある」という絶望に転じ得る。さらに、「終わるのであれ/終わるからこそ、生まれてきて本当によかった」との一見絶対的な肯定に転じ得るが、それが維持される保証はない。

「私は生まれた」に尽きる。子どもを作る、産む意思があっても、実際に生まれること、そして、「この私」が生まれたことには無数の因果があり、偶然的でしかない。「この私」が生まれることは誰も意思、意図できなかった。生きる/生きてきた意味(あるいは無意味)は常に更新され、遡及的に再構成される。逆に言えば、心に抱いたまたは表明された意味(または無意味)は静的なスナップショットに過ぎない。それが執拗に維持されるとしても、変わらないと断じることはできない。

改めて思うけど、反出生主義には細い糸の上を歩いているような危うさがある。一方で、自分や特定の誰かあるいは特定の属性の人/集団が生まれてこなければ良かった/生まれるべきではないという主張に転化し得る。他方で、個別の感情や事例があらゆる存在の出生否定の根拠に転じ得る。

物理学的な、測定される時間は一様に流れ個別性はない。一方、感覚される時間は一様には流れず個別性がある。測定される時間は不変量であり質はない(相対性理論を考慮しても、変換・計算可能な量である)。感覚される時間は可変量であり質しかも変化し得る質だ。過去の時間は測定ではどこを取っても個性がない比較可能な長さだが、感覚では個性を持ち伸び縮みする長さであって(比喩的にしか)比較できない。かつ、想起するごとに感覚される量も質も変化する。物理学的な物差しによって客観化を擬制できるに過ぎない。時間の量と質が想起するごとに変化するとは、その想起の間に時間が経過し、経験が重ねられ感覚が変容するからだ。物理学的な、測定される時間と感覚される時間とは異なる水準にあり並べて比較することはできないし、優劣評価の埒外にある。

このように整理すると、ベネターが反出生主義を論証する上でポリアンナ効果に言及することは規則違反と言えるだろう。言い換えれば、論理をレトリックに置き換え擬装していると言ったら言い過ぎだろうか。人生とは生まれてから死ぬまでの時間であるが、それは一方で純粋な時間の長さとして無個性に比較可能なものにできるが、個別の人生はその人自身の感覚する量と質を持った時間であり、その時間そのものが時間の経過とともに違って感覚され想起されあるいは予測される。

そのような感覚される時間の流れにおける快苦は量や強度として計算し比較できるものなのだろうか。ましてや、対称性/非対称性を当て嵌められるものなのだろうか。そして、ベネターの論証における快苦は可変的かつ相対的な量ではなく不変的かつ絶対的な量(相殺、減殺不可能な量)でしかない。ベネターの快苦の絶対量に基づく非対称性の議論は決して論理的なものではなく、論理の形を取りながら「少しでも苦があるのはよくないよね」というレトリックの水準にすり替わりながら訴求するものになっていると言える。

「意味があるのか分からないけど、生まれたから(には)生きている/生きるしかない。だからこそ意味を持たせたい」――意識的か無意識的かあるいはその程度は様々でも、その前提の上で人は快苦や意味を感じ対処しようとする。生まれたことに、生きていることに原理的な意味はない。宇宙~地球~生物~人類に予め定められた目的も意味もないのだから、いくら遡っても〈私〉が生まれ生きている本質的な〈根拠〉はない。そこに、苦があるから害だ、無意味だと重ねることに原理的な正当性はなく、それもまた価値判断に過ぎない。

生まれてくること、生きることが無意味か有意味か、有害か有益か、流動的な価値判断としては否定すべきものではないが、固定的な論理としては決定不能な問い。そうすると、やはり反出生主義は「主義」であって、反・反出生主義も一様に決まるものではなく、その立場はやはりしばしば「主義」なのだ。

エピローグーー親ガチャについて

親ガチャの問題はそれが言われることではなく、否定し反論しまたは諭すこと。ネットで親ガチャと言われることのどれだけが真剣なものか、ふざけたものか、単なる責任転嫁かなどということはわかるはずがない。問題は絶望的に親ガチャを言ったりあえて軽く見せたりする人に否定・反論・諭しが持つ効果。

親ガチャのようなことへの典型的な反論はその事情の個別性を捨象して一般論にすり替えた上で「それだけで決まる訳ではない」 「自分次第だ」等々と一般論で返すもの。「人や環境のせいにするな」「甘えだ」など説教、叱責が加わることもある。一般論の形を取った反論は特定の人たちには暴力的に働く。親ガチャの主張に悪ノリが目立ってきたらそれへの反論は必要になるかもしれないが、まず必要なのは、絶望的に、身を切るように発話している人やあえて軽く見せて多くを語れない人など苦しむ人への想像力。また、一見責任転嫁、逃避のようでどうにもならない苦しみがあるかもしれないことへの想像力。

親ガチャを取り上げたり論評したりする時には「そんなことばかりではない」というように仮想の「多数派」に寄せて論じるのではなく、親に係わる要因や環境で人生が決まってしまうとはどういうことか、現実にある状況に焦点を当てて論じるべきだろう。ただし、特異性・特殊性を過度に強調すると歪む。

アダルトチルドレンとか毒親とか親や家族が絡むと感情的に反発や否認が先行して一般論で否定して情緒的に親や家族を擁護するということがしばしば起こる。一般論で返すということはそれが一般論の形を取ること自体が暴力的であり、情緒的な訴えは、否定しづらい空気を作る暴力。

無邪気に親(特に母親)を讃えたり家族の素晴らしさを唱えたりすることはメディアでも日常会話でもよくある。その人は素直に自分のこととして語っていても(もちろん、合理化、防衛として美化されていることもあるが)しばしば一般論の形で表現される。そういう発話に接して苦しくなることがある。親に係わることで貧困、虐待や過干渉、過保護などは目に見えやすい(当事者にとってはそうでないこともある)。でも、穏当な介入、誘導や「あなたのため」といった形を取る「柔らかい支配」は見えにくく親の側からも子の側からも自覚されにくいため、気付いた人と気付かない人の間にギャップが生じる。

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