暇空らによるセーフティネット攻撃をケアの視点で考える

このセーフティネットの機能はまずはケアなんだよね。世話・援助ということだけでなく、それ以前に配慮・気遣い、何より注意を向けること。ケアされるべき家族から暴力、虐待を受けるなど、ケアを受ける場・機会を失った、奪われた人たちをケアするのがセーフティネットを構成する様々な主体。

このようなケアは公的責任において提供されるべきだが、制度の狭間に落ちる人が少なくないし、知らない、アクセスがない、アクセスが拒まれる/妨げられることもある。また、行政の画一性や柔軟性欠如が妨げともなるし、職員の知識・技能や感度の問題、非正規職員の多さなども対応能力を制約する。

こうしてケアを欠いた人の中には例えば性風俗業者、ホストクラブ、買春者が、あるいは犯罪組織や反社集団といったものが疑似的なケア提供者、疑似的にケアを受けられる場となってしまうことがある。そこでは仲間意識や家族意識すら醸成されることがある。それらと引き換えに搾取、利用される。

こうした中で様々な民間団体・支援者がセーフティネットを構成してケアを提供している。その中には行政と連携して、その独自性・柔軟性を発揮して行政ではできないケアを提供している団体・支援者がいる。それは、行政の下請け・手足ということではない。公的責任の下での役割分担だ。

そうやって制度の狭間に落ちる人が出ないことを目指して、重層的なセーフティネットの構築が図られている過程にある。その重要な一角をなしているのが若年被害女性等支援事業であり女性支援新法だ。これまで積み重ねられてきた実践を充実させ、横展開していこうという時に暇空問題が起こった。

暇空らの攻撃対象は若年女性支援以外の支援、例えばひとり親家庭支援、困窮家庭支援、外国人女性支援などに及んでいるし、外国人、アイヌ、LGBTQ+、障がい者などに係る支援や施策にも及んでいる。ケアを欠く又は不十分な人たちのためのセーフティネットが広く攻撃されている。

本来こうしたセーフティネットの恩恵は暇空・暇アノン自身もいずれ受け得るものであるし、現に必要としている者も少なくないだろう。ところが、気に食わない存在を叩くということがセーフティネットの破壊という形を取っている。そこには自分たちはケアされないという被害者意識、剥奪感すらある。

だから、「公金チューチュー」妄想はその被害者意識、剥奪感の現れでもあるのだろうし、自分たちをケアしないと思い込んでいるセーフティネットを「ナニカグループ」という存在に転化して「敵」「悪」に仕立て上げているということもあろう。

でも実際彼らは様々な形でケアを要求し、また享受しているはずだ。X等での発信を見ると、きっと暇空・暇アノンの周囲の人たちは様々に配慮し気遣い、また対応することを余儀なくされているのではないかと感じさせる。DV加害者同様、ケアの欠如に怒り、「説教」「指導」等することもあろう。

もちろん、然るべきケアを受けられず孤立している者も少なくなさそうであるが(外形上はそうではなく孤立を否認している者もいよう。暇空はそのように見える)、その中には過大なケア要求や当然視がケア提供者を遠ざけてしまった場合も結構あるのではないだろうか。

若年被害女性等支援事業や女性支援新法の対象者がどのようなケアを必要とし、それはどうすれば適時適切に提供し得るか、そのためにどのような仕組みや基盤が必要かということが暇空らにはわからない。だから、警察にやらせろ、行政が直接やれ、寄付だけでやれといったことを言えてしまう。

知識や想像力の欠如を自覚せず、気に食わない存在への憎悪と誇大感ばかり膨らませてセーフティネットを破壊しようとする。それは暇空ら自身もケアを(さらに)奪われる未来につながるのだが、もしかしたら自分たちをケアしない社会なら壊してしまえという無意識の衝動もあるかもしれない。

最後に、ケアには利他性の契機が含まれるし、相手の立場に立つ、想像するということが欠かせない。自己都合のケア、独りよがりなケアは相手にとって不快、迷惑であるし害しすらする。自己中心性が強く、また何でも利害関係でしか見られない暇空らはここがわからない。だから、利害関係と悪意の塊のような「ナニカグループ」を妄想できる。

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