玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』/「強い制度志向と倫理のアウトソーシング」『現代思想』2023年1月号

『現代思想』1月号の玉手慎太郎「強い制度志向と倫理のアウトソーシング」になるほどと思った。同時に、AIの問題を接続できるような気がした。それはAIに係る責任問題というだけでなく、倫理的判断や自らの倫理形成自体をAIに委ねること、その倫理が統計的に導かれることの問題。

玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』。コロナ禍で乱暴な二分法で議論されがちだったり、ナッジが魔法の杖であるかのように広まっていたりする中で、本書のように根源的な水準で丁寧に積み上げることはとても大事。玉手さんも書いているが「じゃあどうするの?」という性急さは落とし穴。

行動制限や義務化の是非といったことに関する乱暴なあるいは安易な議論は、表層的な人間像、モデル的=虚構的な人間像、あるいは特に、実は発言者の主観的、経験的な人間像を当然の前提にしていたりする。制度が高潔・有能・真面目・合理的…な人を想定したかの設計をされていて機能しない、使い勝手が悪いことがある。それで、じゃあナッジだということになり得る。逆に、利用者への不信や見下しに基づき設計され、上から目線や利用者に屈辱を与えるつながる場合もあるし、やはりナッジだとなり得る。

ナッジは形式としては非侵襲的、非抑圧的だとしても、制度の前提や趣旨との関係で見て実質的にどう働いているのかを捉えなければ大変危険なことになり得る。ナッジである制度に誘導され、それが別の制度と紐づき…とナッジによる1つの「自発的」選択が多数の選択を水路づけることもあり得る。玉手さんの論考「強い制度志向と倫理のアウトソーシング」と重ねれば、倫理的判断が制度論に委ねられ制度設計に組み込まれる。一旦制度化されると、従う/従わない、使う/使わないの水準に限定され、倫理的疑問・議論は封じられてしまう(相手にされない)。

制度の前提や趣旨はしばしば人々に「伝染する」。制度を拒否する人、制度に拒否される人、制度をうまく使えない人は異物視されたり劣等視されたりする。逆に、制度の対象となる人がそう見られる。また、「反対・批判ではなく対案、改善案を出せ」という恫喝にもなる。制度の議論・検討も設計もしばしば一面的なあるいは貧しい人間観に基づいていたりするし、特定の価値判断に適う/を反映した人間像に基づいていたりする。にも拘らず、その制度に従わない、使わないことはしばしば不利益となり、不服ながら又は考えることをやめて使わざるを得なかったりする。結局、倫理的判断を制度に委ねたら、その制度に組み込まれた倫理的判断を消極的あるいは形式的にであれ受け入れることになるし、形式に馴化されることでその倫理的判断に馴化され、いつのまにか内に取り込んでいることになる。まさに、跪けば信じられるようになる(パスカル)、だ。

ところで、本書の「補論2 自己責任を追求する心理」も興味深く読んだ。玉手さんは健康の自己責任論について、ヌスバウムを参照しながら、脆弱性、依存性、自己コントロール不可能性の否認が他者非難に向かうメカニズムを捉えた。だらしない他者を非難することで自己の優位性を保ち、自己像を得るのだ。

ここから話を広げれば、「Colabo問題」を構築したデマ問題/暇空茜問題、その背景にある「表現規制反対」「表現の自由」派問題、トランス女性差別・排除問題、共同親権派問題、それと密接なDV加害者問題…における一つのメカニズムともつながる。どうにもならなさ、思い通りにならなさの苛立ちをその原因、源泉と特定した人に向け、その気に入らぬ他者を制圧しコントロールしたい、コントロール権を奪いたいという心理が見える。そうして、自らがコントロールできる(と思う)領域を広げようとするのであり、自分の力を想像的に実感したいのだ。

トランス女性差別・排除問題ではねじれた経路もあり、シス女性の不安・恐怖を煽る形、つまりシス女性とトランス女性を二重にコントロールしようという動機(意識的であれ無意識的であれ)も見られる。他の問題にも共通するが、ジェンダー-異性愛秩序の安定が自己コントロール感と直結する者がいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?