ケアとはどういうものか

小川公代『ケアする惑星』読了。前著『ケアの倫理とエンパワメント』もそうだが、ケア(倫理)の視点を入れると知られた作品の別の/新たな/見落とされていた側面が浮かび上がる。何となくスルーし又は避けていた著者・作品を読みたくなる。なかなか読書が追い付かないのだけど、ヴァージニア・ウルフ、ジェイン・オースティン、オスカー・ワイルド、ルイス・キャロルは順次読んでいきたいと思っている。

小川公代さんのこの2冊の出色なところは、文学をケア(倫理)の視点で読解することでケア(倫理)への思索が深まること。フィクションの場面で現実を照らし返すことでケア/ケアの不在が鮮明になる。

「ケア」とは狭い意味での介護や育児などに止まらないし、「世話」というような有形的な行為にも止まらない。配慮・気遣いであったり、明示的に志向的には見えない「構え」のようなものも含まれる。だから、過剰に求められたり引き受けられたりすることの危うさを孕みつつ関係的に成り立つもの。無償のケアは基本的に応報性を求めずになされるし、有償であっても有形的、技能的に目に見えやすい部分に対して報酬が支払われる。いずれであれ、その負担やスキルは過小評価され、しばしば女性性や母性と結び付けられて価値/価格が切り下げられ、そもそもケアと名指される範囲が切り詰められている。

ケアは目に見える具体的な行為だけではない上に、有形のケア行為の前後にも広がっているし、そのケア行為と同時にも働いている。そこが見過ごされるからしばしば女性のケア負担は過小評価されるし、男性が担うケアは有形的で瞬間的な部分に限られ負担の偏りの是正にならず女性の負担が増えすらする。ケア(負担)の捉え方が狭いから、家事・育児・介護と仕事の両立を図るための制度や施策であったりケアラー支援を謳うものであったりがしばしば的外れなものとなるし、かえって当事者の負担を増すものともなってしまう。

共同親権の議論でケアによく言及してきたのは、ケアそのものについてもケア負担の非対称性についても、共同親権を求める側の捉え方があまりにも狭く偏っていることが明白だからであり、それが夫の権利主張としても妻への義務要求としても極めて歪んだ形で現れているから。

ケアは本質的に利己的なものでも自己中心的なものでもなく、相手の立場に寄り添いその視点に立ってなされるものである。だから、相手のためと称しつつ自己利益のためになされるものは本来のケアではないし、有償のケアでも相手の立場、視点を無視したものは適切なケア提供にはならない。もちろん、ここにケアの危うさもあり、利他、無私の行為や配慮、構えが搾取の対象になることもあるし、ケアする立場に置かれて全人的に支配される危険すらある。逆に、ケアの提供が意識的であれ無意識的であれ相手を支配する手段ともなり得る。

だから、相互性を欠いたケアは危険なものとなり得る。ここで言う相互性は必ずしも同時的なものではないし、双方からのケアが同型性や同価値性を持って常に相殺される必要もない。ケアをしたから返礼のケアを期待する、ケアを受けたからケアを返す義務を感じるというものでもない。ケアする-される関係が一方向に固定せず互いに自然とケアを提供し合う。一対一の関係に限らず、またクローズドかオープンかは問わず、連鎖的にケア提供がされ、ケアするだけの者もされるだけの者も固定していない。一方は有形的なケア、他方は感情的なケアというようなことだってある。

有償のケアでも、ただ対価が支払われればいいのではなく、例えば感謝やねぎらいであったり人としての尊重であったり、ケアを受けたことの心地よさを表現することであったり、少なくともケアラーの負担・疲労が目に見える技術的なものだけではないことへの理解であったりがあることが望ましいだろう。ここは微妙な点ではあり、有償ケアを受ける側が対価提供以上に何か義務を感じるべきということではないし、そのケアやケアラーに対して感情を重ねることが孕む危険性も当然にある(典型的には恋愛感情や依存心)。だから、ケアラーを機械や道具のように扱わないということが最低限のこととして言える。

一方で、有償のケアが定型的、機械的に提供される場合、ケアを受ける人やその家族がそのケアに合うよう調整するとか準備をするといった形で適応することも少なくない。なかなかそうはみなされないが、実はケアを受ける側が顛倒した形でケアを提供している。これも歪なケア関係だと言える。ケアは不可視化されたままではしばしば非対称性が温存されてしまうし、逆に、可視化、意識化されると返礼への期待や義務感が生じ関係が変質しやすくもなる。あるいは無償労働の議論がしばしば「家事の値段はいくら?」「主婦に給料を払うのか?」のように明後日の方向に行くようなことも起こる。

ケアの視点の不在は、ケアを安直に有形的に、量的に表象し既存の認識の枠組みに取り込もうとする態度と表裏一体で、ケアをそのまま質的に理解することを妨げる。言い換えれば、ケアの視点の導入は認識や世界の見え方の転換、変容を要求するもの。しばしばケアの議論がかみ合わないのはそのためだろう。

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