スポーツ競技と「性別」について
テストステロン、性染色体のような特定の身体物質の有無や量で競技参加資格が決められるのであれば、遺伝子レベルでそうなることと地続き。
そうすると優生思想や政治性を排除することができなくなる。
男女で競技をわけることは、生物学的、先天的に男女間に競技能力に差異、優劣があることを意味しない。歴史的、社会・文化的な競技環境、訓練環境、生育環境等のジェンダー差は大きく、条件が大きく異なる。同一競技でも男女間で「競技文化」が異なることは珍しくない。その意味で、多くの競技で男女別としていることは合理的であるとは言えるのだが、それが男女間での競技の性格の違いを再生産していることも確か。
他方、男女の生物学的な競技能力差とされるものをさらに具体的に分析すれば、競技にもよるが、例えば単に身長差が大きく寄与しているといったことが十分に考えられる。また、対戦型の競技であれば、同性と戦う場合と、異性と戦う場合とでは戦略が異なることが当然に考えられ、生物学的な優劣に還元できるものではなかろう。
一方で、競技能力については人種差も通俗的には言われやすく、これは突き詰めれば人類が99.9%遺伝子を共通して持つ中で残り0.1%の差異のある部分に起因するものである。しかし、有利とされる遺伝子を持つ人の競技能力が皆高い訳ではなく、当該遺伝子と他の遺伝子との組み合わせはもちろん、地域ごとの自然環境の違いを含めた環境要因が遺伝子の効果の発現を左右する。また、伝統的に強豪とみなされてこなかった人種や国が強豪となったケースは幾らでもあり、競技能力を決める要因を遺伝子的、生物学的要因にのみ求めることができないことは明らかである。
いくつかの競技で採用されている体重別のクラス分けも便宜的には合理的に見えるが、体重のみでクラス分けされることが有利不利につながることもあり、競技にもよるだろうが実は身長別の方が合理的ということもあるかもしれないし、そうなると今度は手足の長さは?といったことにもなろう。
事程左様に、男女別にしてもクラス分けにしても歴史的、社会的・文化的な制約を大きく被っており、ルールもまたその区分けを前提としながら条件の対等化を目指して試行錯誤が繰り返されてきたし、その際には今では無効となった「科学的」前提に拠っていたり、それ以上に政治性や力関係の影響を被ってきたりした。
当面は多くの競技での男女別を解消することは現実的ではないと言えるが、もちろんそれは勝負、順位付けという前提のための公平性の問題である。ただし、上に述べてきたことを踏まえれば、男女別やクラス分けのみで公平性が確保されているということも実は言えないし、公平性の基準について特定することも合意することも実は不可能である。便宜的に合理的と一致できる範囲でのことに過ぎない。
だから、「女性とはみなされない」選手を排除するために生物学的な基準に依ることは全く恣意性を免れないし、その基準の選択に「どのような存在を排除したいか」が先立っている。そもそも、生物学的にもジェンダーは二分できず、むしろ二分法が先立った上での基準設定であるから線引きは相対的で恣意的にならざるを得ないし、常に「例外」が生じてしまう。その「例外」を競技上男女どちらに振り分けるかもまた恣意性を免れないし、それが自認上、社会生活上のジェンダーと一致しないということも起こってしまう。
ここには技術進歩に伴う矛盾もある。歴史上も、トランスジェンダーやインターセックスといった人たちがそれと知られずに男女いずれかの競技に参加していたことはオリンピック等の主要大会でも少なからずあっただろう。検査が可能になりまた検査が求められるようになったことで「問題」化してきたにすぎないとも言える。これは医療技術の進歩が「新たな」倫理問題(例えば、脳死、延命措置/中止、生殖医療、遺伝子技術…)を生じさせてきたことと同様だ。だから、実は、「最近になって」トランスジェンダーやインターセックスの選手の参加要求が出てきて、実際参加するようになったというようなストーリーは正確ではないし、極めて政治的なものだ。科学的な色彩を帯びつつも真っ先に感情に訴求するようなストーリーこそ注意が必要だ。
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