都知事選「泡沫候補」と選挙運動の悪用に現れている過激化と分断状況について

「泡沫候補」たちの有害な選挙運動が都知事選結果を左右することはないが、それ自体が民主主義の危機を表していて、無視しあるいは笑っているだけでは済まない。

以前なら都知事選の泡沫候補を楽しむ文化みたいなものも成り立ったし、そういう祝祭感があっていいという見方もあり得たのだけど、SNS、YouTubeとネット選挙解禁で明らかに変質したよね。今回は特に酷すぎる。本気の泡沫候補が選挙に好影響を与えることもあり、安易に規制もできないが公論は必須。

※暇空の立候補を巡っては以下のリンクから「6月20日追記」以降を見て欲しい。以下の議論の補足になる。

「妄想の奴隷」暇空らの暴走(6月26日追記)|Masanobu Usami (note.com)


表現の自由も政治的な表現の自由も無制約ではないし、ましてや加害の自由ではない。選挙ポスターであれば子ども虐待もセクシュアル・ハラスメントも許されるなんてことはない。むしろ、公共の場で、不特定多数に見られるために貼られるもの。そこを全くはき違える者に公職の候補者の資格はない。

政治的抗議、メッセージとしてのヌードというものは確かにあるが、内心の意図、動機は誤魔化せるし、無意識のバイアスもある。抗議等のためだとしても付随的に誰にどのような害を及ぼすかは顧慮されるべきだ。このような難しい問題を孕むが、あのポスターはそう言った議論以前の問題。

政治的主張の建前でなされる差別・ヘイト、誹謗中傷も許されるものではない。文言単独で見れば明白でなくとも、その置かれた文脈、その候補者・政党の従前からの言動、そういったものがその文言に差別・ヘイト、誹謗中傷としての意味と効果を付与するし、何より見る側にとってそれは明白なものとなる。

今回の都知事選はそういう候補者が多過ぎる。選挙に突然現れた「色物」ということではなく、従来からの加害行為、加害的主張を都知事選という場を使って増幅する者たち。選挙に祝祭感をもたらす泡沫候補ということとは全く異なり、社会的病理の表現となってしまっている。


河合のポスターに対する警視庁の警告に例によって「表現の自由」の立場から批判する者がいるが、加害性を否認した自己中心的な行為とその歪んだ正当化、合理化こそが表現の自由への介入や道徳的な圧力を招くんだよ。

そして、東京15区補選のつばさの党しかり、都知事選の多くの泡沫候補しかり、その暴走は本当の意味での政治的アウトサイダーの挑戦への障壁を高くしてしまうことになる。また、マスコミの報じ方にも懸っているが、有権者の選択のための議論の質、有意味性への脅威ともなる。


公共の福祉というのは衝突する権利・自由の間の調整原理。ところが、「表現の自由」(カギカッコ付き)を擁護する連中は自分たちの権利・自由を事実上絶対視し、対抗する権利・自由を「お気持ち」だ何だと貶めることで公共の福祉による調整をそもそも適用させよう主張する。

かつ、かつての言論・表現弾圧の歴史をすり替えて重ね合わせ自分たちを(潜在的)被害者の位置に置くとともに、情緒的に煽動する。苦闘の末に獲得された言論・表現の自由には歴史的、構造的な差別・不平等が刻印されており、現行制度も意識もそのバイアスから解放されていないことも都合よく無視する。

言論・表現の自由の確立後も、性的表現を含め、女性、LGBTQ+、黒人など人種的マイノリティ、障がい者などの言論・表現こそ弾圧され、柔らかい圧力がかけられ、あるいは「自主規制」「自主検閲」に追い込まれてきた歴史がある。この言論・表現の自由の適用の恣意性もまた都合よく引き合いに出される。

だから、女性やLGBTQ+などの表現者などが「表現規制反対派」に同調してフェミニストなどを攻撃しているのを見ると複雑な気持ちになる。それはむしろ、こういった表現者などが抗い、攪乱しようとしているジェンダー秩序、規範に共謀し、強化するものであるから。

この文脈で「常識」といった言葉は排除性、抑圧性を孕むから使いたくないのだが、討議、対話で合意を形成していくことがますます困難になっている(討議等による合意形成という理想もしばしば無自覚に差別・排除を孕むが)。それ以前に、強固な認知・解釈枠組みが維持され、議論の前提が共有できない。

歪んだ認知、信念が自覚されず、それを揺るがすことが予め排除され、拒絶され、「正しさ」が押し通され、相手の主張を押し潰すこと、相手の信用を貶め主張を無効化することに力が注がれる。しかも、そういうやり方をしている自覚を欠き、自らは論理に従い相手こそが「正しさ」を押し付けていると言う。

ネット・SNSのフィルターバブル、エコーチェンバーでこの歪みが増幅され強化され、ますます討議、対話が困難になり、罵詈雑言であれ一見柔らかい物言いであれ、異論を攻撃し、黙らせようという傾きがますます強まっている。しばしばそれは根拠・合理性なき信念、妄想の域にあるが自覚されない。

そういう者ほどインスタントに攻撃を繰り出すから、スピード的にも量的にも圧倒しやすい。丁寧な反論、前提や論理の誤りを突く指摘ほど顧みられず、すり替えた主張で一刀両断にされやすく、ますます討議、対話から遠ざかる。

真摯に討議、対話をしたい人ほど傷つき、黙らされ、撤退させられ、あるいは諦めて撤退するか最初から近づかない。その状況が日々我々が目撃していること。粘り強く、討議・対話が成り立つ安全な空間を広げ、傷ついた人が孤立しない支え合いを強めていくしかないのだが。

そうは言っても現実に被害は生じており、それはネット・SNS上だけでなく、暇空問題、共同親権問題然り、選挙ポスター・ヘイト演説然り、現実空間に漏出した被害も膨大に生じているからね。公共の場における性的表現の問題等も然り。加害性を否認する信念がネット・SNSで強化され現実化、行動化される。

希望を見出そうとしてもどうしても暗くなってしまうのだが、そうは言っても、ネット・SNSがポジティブなつながりを可能にし大きな力をもたらしたことは、直近の共同親権反対運動などそれでも多くあるからね。やっぱりその可能性に希望を見出し、つながっていくしかないよね。


N党のポスター掲示板ジャックで、学校前での在日コリアンへのヘイト、出会い系サイト・詐欺サイトへの誘導と思われるもの、大久保公園周辺でのホストの広告…。いずれも法令上は撤去を求めたり警告したりは難しいのだろうが、完全に選挙運動の悪用で、政治的に規制論議が難しいところを突き悪質。

こういうのは「淘汰」論の無効性を示すもので、もはや「良識」頼みの建前では悪化の一途を辿ることが、東京15区補選、都知事選で明白になったと思う。国会でも、都知事選後に閉会中審査を行って状況把握と問題意識の共有を図り、次国会での立法を視野に動くべき。

「淘汰」論、「言論の自由市場」論はそれ自体に権力の非対称性、既成秩序・規範の差別性等への鈍感さが組み込まれていて、根拠なき既得権益の保護に傾くことが否めない。ジェンダー、性的指向、人種等々のマジョリティが支配、コントロールし、その無意識のバイアスが気付かれない「自由市場」。

問題となっている、N党のポスター掲示版の悪用。こんなものまであるらしい。だから、暇空も浜田聡も自由にさせたままではだめなんだよ。

N党のポスター掲示板ジャックで共同親権推進派のものも…。QRは羽田ゆきまさに飛ぶ。浜田聡も「実子誘拐・連れ去り」「虚偽DV」「弁護士利権」等々のデマを振り撒いてるからね。酷いの一言。


残りの選挙運動期間でまだまだ酷いことが起こるというのは、暇空ら泡沫候補が都知事選の帰趨に何ら影響を与えないのとは別の問題。都知事選は彼らの有害性発露の舞台であり、エコチェンの同調者と共にますますエスカレートする。選挙違反というよりも特定の又は不特定の誰かに被害が生じる問題。

これまでも選挙を利用したヘイトスピーチ等の問題はあったが、ネット特にSNSとYouTube等動画配信の環境故により有害で制御困難な事態になっていると思う。前例踏襲で謙抑的な対応では被害を防げないし、その被害の回復も難しくなろう。警察、選管、その他行政機関、議員は果断に動いて欲しい。


私はリベラル、左派だし、警察や行政に無条件の信頼は置かない。現に「トー横」や大久保公園周辺で警察が前に出ることに反対しているし、それらを含め行政の限界を主張している。同時に、必要な場面、状況では前例踏襲、惰性ではなく果断に役割を果たすべきと考える点は伝統的左翼とは異なるだろう。

DV・虐待のように伝統的に警察が介入しなかった領域とは違った意味で、悪意が広がり現実化し行動化されるスピードが段違いになり法規制が追い付かないのが今起こっている問題。当然法令に基づくことが大前提だが、解釈・運用の柔軟性を高めないと、その保守性のメリットをデメリットが凌駕してしまう。

政治的、社会的な対立、分断が加速し、極端な言動が一定の支えを得て際立ってきているというのは全世界的な状況だが、悪意、妄信に基づく言動の量とスピードが圧倒し対抗言論や規制が追い付かない間に、マイルドに共感する者が引き寄せられエコチェンに入って信念を強め過激化してしまうことがあろう。

一見開放的なネットを舞台に実は閉じたところでぐるぐる回るだけのネット選挙をやっている候補者・陣営は票を取れないが、その支持者・同調者の凝縮度、強度は上がりますます極端化、過激化してしまう。しかも、都知事選の有害な候補者の一定部分は影響圏が重なり合っている。

アナログな時代とは違って、現実空間での勧誘・布教のような手間と時間のかかるステップを踏まずとも、身体的に現前、近接する(あるいは閉じ込める)物的環境がなくとも、それができてしまう。このインスタントさに対して、警察・行政権力への警戒感に固執していては対応できない。

もちろん、隙あらば権限と裁量を拡張し領分を広げようとするのが警察や行政の常であって、同時にそのことへの監視もアップデートしていかなければならない。その緊張関係を持ちつつも一定の信頼を付与しなければ事態は悪化するだけだと思う。単純な二分法、二項対立では無理。


まじでさ、蓮舫さんの応援だけしていたいよ。小池知事との事実上の一騎打ちにだけ集中していたいよ。 でも、この17日間で何が起こるか、それが何につながるかという危機感から目を背けることはできないのよ。選挙運動を通じて被害が広がるのを座視はできないのよ。

放っておいても落選する泡沫候補たちをエンタメ消費したり笑いものにしたりするので済むならどんなに楽で平和だよ。そうじゃないんだよ。その立候補が、選挙運動が現実の被害、犠牲に直結してるんだよ。彼らに吸い寄せられないようにすることも大事。でも、支持、票の多寡に関係なく加害行為は続く。

暇空ら泡沫候補の選挙運動は都知事選結果には影響は与えないだろう。しかし、《選挙を通じて》民主主義の掘り崩しと差別・排除の助長がなされており、この単回の選挙結果だけの問題ではない。

蓮舫さんにヘイト、ミソジニーを向ける層、小池知事にミソジニーを向ける層はこれら有害な泡沫候補やその支持者、同調者と重なってもいる。そういう意味でも選挙が荒らされている。

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