塚原久美『日本の中絶』から考える。リプロ未確立のまま女性の身体管理に向かう時代に。

塚原久美『日本の中絶』。日本のリプロダクティブ・ヘルス&ライツ軽視の歴史と現状を中絶に焦点に当ててまとめた力作。中絶は狭い話題ではないし、陰に追いやられる状況に問題が現れている。女性の身体が対象化され管理されてきたことが鮮明で、性教育バックラッシュにもしっかり言及されている。

本書でも強調されるが、望まぬ妊娠と困難を背景とする新生児遺棄事件があると激しく叩かれるが、女性が管理できる避妊手段が極めて限られ、力関係で避妊がされず、あるいは性教育の不全と歪んだ性情報環境で男女とも性知識に乏しく、女性への相談支援体制・態勢が十分でなく…の結果が女性に集中する。

そして、最後の手段である中絶も、配偶者やしばしば未婚でも相手の同意が求められ、高額で、道徳的非難や心身への負担・危険があり…と中絶できてもできなくても劣悪な状況に追い込まれ得る。女性が自らの意思と希望に基づき自らの身体を管理できることからは依然としてほど遠い状況。

「堕ろす」のような言い方がスキャンダラスにあるいは軽口として使われがちな一方で、女性にばかり無責任、奔放、身勝手等々のレッテルが貼られて非難が向けられ、その苦悩や困難な決断はしばしば無視される。

女性が中絶するかしないかの決断を迫られることとなった経緯、背景が無視、軽視され、途端に母となる性、産む性としての自覚や責任が強調される。これはDVを背景又は遠因とする虐待死事件で母親に向けられる非難でも同様。

このような状況を転換し得たのが90年代のカイロ人口会議、北京女性会議等の国連会議(その他にウィーン人権会議、社会開発サミット等)と男女共同参画社会基本法制定という一連の展開だったのだが、2000年代の性教育、リプロなどジェンダー・イシューへのバックラッシュ、バッシングで逆流、停滞した。

本書でも強調されているが、妊産婦への支援、子育て世帯への支援や不妊治療の支援は少子化対策=子どもを産ませるという視点、問題の立て方ではなく、リプロと女性の自己決定の視点、そして子どもを産み及び/又は育てたいカップルへの支援の視点でなされるべきだ。

それは未婚/既婚、ジェンダー、セクシュアリテイに関わらず、実子/養子に関わらずということ。社会や親族の意思や希望ではなく本人の意思と希望に基づくのであり、それに対して必要な支援がなされること。それが子どもにとっても適切な養育環境の条件となる(当然、矛盾するならば介入が必要になる)。

派生して言えば、ここ数年の「女性の健康」やフェムテックへの注目は両義的。一方で、女性が自らの身体と健康について知り、自律的に管理できることは必須だし(それは男性も同じなのだがメタボの話ばっかり…)、それを容易にする技術が気軽に利用できること自体は望ましい。ただ、それだけではない。

最近の「女性の健康」とフェムテックの強調には、自らの身体と健康を管理して労働という面でも出産・育児という面でも役に立てという暗黙のメッセージがしばしば含まれている。推進する側もしばしば善意、無意識なのだが、女性を(人的)資源と見、自己管理を促す視線が見え隠れする。

女性が自らの身体と健康を管理できることは企業や社会にとってもメリットがあるというのは危ういバランスの上にありつつ有効たり得る論法なのだが、性別役割分業意識、ジェンダーのステレオタイプ、新自由主義あるいはナショナリズムといった意識や前提と重なると容易に女性の資源化に傾く。

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