主観的時間と客観的時間――時間感覚を巡って

時間感覚が何となく平板だ(この文章は2018年12月のツイート)。1日の中では多少の起伏はあるけど、淡々と1日が終わる、というか寝つけるのを待ち、やり過ごしている感じ。目が回復すれば状況が変わるかもしれないけど、死を迎えるまでの時間が過ぎるのをいつまでか分からないまま淡々と費やしていくのかな、と。例えば、診察といった予定があって出かけるまで時間がないとかで、時間が足りない、ゆっくり流れてくれなどと思うことは1日の中ではあるが、基本的には時間が早く経つことを期待しているように思うし、1日1週間…と過ぎる時間を惜しむ感覚が今はない。かと言って、来る時間に期待がある訳でもない。

そうやってやり過ごした時間だが、過去を見ると割と速く流れた気もするし、数週間前数ヵ月前は随分前のことのような気もする。これは割と一般的な感覚でもあるのだけど、そこには主観的時間と客観的時間の差異があるのだと思う。客観的時間は時計で測られ示されるもので、均質に進行する。

主観的時間はまさに感じられる時間で、精神状態、身体状態、外的環境の関わり合いの中で伸縮する。その主観的時間と客観的時間とのずれが、時間が経つのが早い/遅いと感得され、それもまた主観的時間にフィードバックされる。対して、(客観的時間は相対論の世界は排除し日常生活世界に限定して論じるが)そもそも客観的時間なるものが存在するのか否かは哲学的問題でありここでは深入りはしないが、とりあえずは自転・公転から比例的に定められた「決まり事」としておく(現在は原子時計によるのだが)。また、時間は変化の存在しないところには存在し得ない、より正確には認識、同定し得ない。

変化というところで客観的時間と主観的時間と接点ができる。我々は時間の進行を見ることができ、聴くことができ、触れることができ、臭うことができ、味わうことができる。何らかの変化が五感で知覚できて時間が感得される。それは外界だけでなく、心臓の鼓動、呼吸、腸の動きといった体内的な変化でも感得される。

主観的な時間は均質に進まず、伸縮する。未来に向かって考えるとき、年齢(や何年後)からの予測や想定(心身状態や生活、仕事など)がある一方で、目標や想定から年限を設定したりする(◯◯は✕✕年後までに達成するなど)。その両方向が相互作用し、また予測等を踏まえてその前後の目標等が設定されもする。そして、年齢等と紐付いた予測等と相関して時間の長さや密度は様々に感じられる。同じ期間でもすぐに過ぎそうに思えたり、退屈または苦痛でなかなか経ちそうになく思えたりする。

時間感覚は一定ではなくその時々の出来事や心身状態等によって変化する。両極では、ますます時間が足りなく思えて焦りが増幅したり、ますます果てしなく倦むように思えたりする。このような再帰的な循環に嵌まることは典型的ではないにせよ、時間は常に伸縮する。また、中長期的な時間感覚と短期的な時間感覚はしばしば矛盾する。時間が足りないと思っていても常に合理的に時間を使えることはなく、「無駄な」時間の使い方がしばしば挟まる。日々倦むように感じていても、特定のことについて時間が足りないと思ったりする。

恐らく時間感覚はそのときの視点によっても変わる。未来を視点(または反射点)として現在と過去を見るのか、過去を視点(または反射点)として現在と未来を見るのか。その視点も、特定の出来事や年齢等と紐付くのか、幅を持った期間の経験等と紐付くのか。あるいは、没入する「いま」を起点とする時間感覚はまた異なるはずだし、視点はその時々で変わり時間が伸縮する。もっと言えば、そうして得られた時間感覚が再帰的に視点を設定し直して時間が伸縮する。

「いま」の経験や予測等から正負の何らかの感情が生じたとき、そのまま受け取るのではなく、それがどのような時間感覚に枠付けられていて、その時間感覚がどの視点から生じているのかを反省することはその感情に支配されないために必要なことではないだろうか。それは、負の感情に絡め取られないためだけではなく、駆られるような正の感情の過剰さに追い込まれないためにも必要だろう。

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