フェムテックについて(2023/06/13)

『現代思想』5月号のフェムテック特集を読んで、結局この言葉と領域をいかにして奪い返せるのか、多様性に開いていけるかだなと改めて思った。「女性の身体」は女性が自らの身体に意味付与しコントロール権を取り戻す(本来のあり方として獲得する)ことが議論と闘いの焦点だったのだが、優生保護法~母体保護法の問題しかり低用量ピルの問題しかり、リプロが提起されてもなおコントロール権を十分に得ることができず、むしろ政治・行政がリプロを前に出すことを忌避したり緊急避妊薬、経口中絶薬でも同じことが繰り返されたりしているし、何より少子化対策がますます強調される流れ。

少子化対策という問題設定は時にあからさまな形をとりつつも基本的には柔らかい形、誘導的な形で女性の身体の管理を強めようとするもの。そこでブーム化し政策的に推進されるフェムテックは女性の身体の監視と管理の道具というだけでなく、女性の意識・認識に働きかける。

フェムテックのカギであるのがセルフケアであるが、それには女性による自己身体のコントロール権という側面も含まれはするが、生殖や経済のために女性の身体を整えるという傾きが強く、身体のセルフケアを通じて女性の意識を水路づけていく側面が強くある。

女性の身体を巡る議論と闘いは対国家、対男性という文脈でなされてきたが、ナショナリズム/保守と新自由主義の連動又は結託の現れとして少子化対策やフェムテックの推進がある。そうした中で、女性の安心・安全という構成で反トランス感情が動員されており、ここでも焦点は身体だ。

つまり、トランス女性の身体が有徴化されシス女性の身体を守るものとして、トランス女性の身体に貼り付けられた脅威からシス女性を守るものとして反トランスが訴えられている。特に保守派の「女性を守れ」にはパターナリズムが見え隠れし、またシス女性を反トランスの手段化する思惑が見える。

結局、保守派の反LGBTQ+の核には「伝統的」家族の擁護と生殖主義がある。あからさまに言われるのであれ暗示的であれ、あるいは意識的であれ無意識的であれ、彼らの「女性を守る」には妊娠・出産すべき女性の身体を守るという動機がある。これは「逸脱的な」女性が非難される場合もそうだ。

今問題となっている水着撮影会であれAVやセックスワークであれ、女性側の意思、自由が強調される時には留保なく「自己決定(権)」という言葉も使われる。確かに、女性が自分の身体に十全なコントロール権を有し行使できているのであればいいのだが、他の者からのコントロールは透明化される。

あからさまな強制や暴力等がない場合でも本当に自己コントロール権が行使できているのかを実質的な水準で見ていかなければ、フェムテックにおいてセルフケアが促されその実女性の身体が柔らかく監視され管理されるのと類比的な、ネオリベ的自己責任・自己決定の虚構の陥穽が待っている。

女性の身体をコントロールし利用しようという欲望、動機が、それを持つ者の存在とともに透明化、不可視化されるということが以上のすべてに共通する。その逆に、女性を尊重する善きことであるかのような、善き理解者・応援者であるかのような装いが前に出る。しばしば無自覚な自己欺瞞として。


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