アイデンティティ構築と差別意識(追記あり)

アイデンティティは第一義的には区別、異化として否定の束、「~でない」の束として構築される。〇〇人/外国人でない、女性でない、同性愛者でない、トランスジェンダーでない、障害者でない…もちろん、誰々のような/何々するような男性でない等々細分化、差異化されていく。

それが反転して積極的なものとして引き受けられていくが、その基底には否定、排除がある。もちろんだからと言って、否定、排除されるものは否定的な(又は肯定的な)価値付与をされるとは限らず単なる「違い」である場合もあるが、しばしば否定的な価値を付与され否定、排除される。

だから、アイデンティティが積極的、肯定的に語られ誇示すらされる時、しばしばそれは否定的なものの否定、排除即ち差別を通じて成り立っている。例えば、「日本人」としてのアイデンティティ、「男性」としてのアイデンティティの誇示の裏には外国人差別、女性差別が潜んでいる。

さらに言えば、上に述べた通り、これらのアイデンティティは一足飛びに積極的なものとして成立し得ないのだから、他者しかも「自分とは異なる」他者を見出し名指して否定、排除しなければならない。その「違い」はアプリオリにあるのではなく「違う」ものとして見出され差異化されなければならない。

その時に、その他者を劣位のものとして差異化することで自らを優位化するということが起こり得、その優位化されたアイデンティティを積極的に引き受け誇示するということが起こり得る。しかし、そのようなものであるから、継続的に劣位な他者を見出し差異化せねばその積極性、肯定性は保てない。

積極的に引き受け誇示するアイデンティティだからこそ脆弱で、崩れる/崩される不安に晒される逆説がある。差別の動機も、「差別者」と名指された時に生じる被害者意識もこのメカニズムから説明できる。あるいは、差別とも重なるが、女性支援団体、NPOへの攻撃、バッシングもそうだ。

対等性の中で他者を尊重し、その他者とは違う自分を尊重し、時に他者との出会いからアイデンティティの変容を経験するということではなく、自分の優位を確信するために劣位の他者を必要とし見出し続けなければならないという強迫。そういう者が何らかの「力」に固執し縋るのは象徴的だ。

そういう者は状況を定義し、他者を定義し、コントロール権を握ろうとする。それを手放すこと、あるいは「奪われる」ことはアイデンティティの危機に直結すると感じられる。その不安がますます差別に、「力」の行使に駆り立てる。

本来、アイデンティティとは関係的なものであり、一方で時間と経験の累積を通じて強化され変化を拒み得るものではあるのだが、関係的なものであるが故に変容し得るものでもある。実際のところ、遡及的に記憶が更新されるが故に本人こそが変容を自覚していない場合が多い。

そうではあっても、他者との出会いに開いているのか、劣位のものとして見出すために他者を必要とするのか、もちろんこの二択ではなくグラデーションではあるのだが、後者の傾き、構えが強いほど差別し、「力」を行使する傾向性が高まると言える。

追記

Springなどを執拗に叩いてる連中って、草津町や個人としての町長の名誉は関係なく、人権ということも関係なく、ミソジニーに駆動されているだけだし、自分のアイデンティティである男というカテゴリーの過剰な防衛意識だよね。異様な執拗さ。

ここまでくると、男であることの誇りではなく桎梏、不安なのだと思う。何か理想的な、規範的な男の像、想像物でしかない「男なるもの」に縛られ絶望的に固着している。その「男」を守ることが自我を守ることと同一視されてしまっている。

言い換えると、ホモソーシャリティ。しかも、特定の、具体的な男集団ではなく、想像的な男集団≒カテゴリーからの排除を恐れている。どこにもない男集団が間主観的に、相互牽制的に立ち上がってしまっている。実はだれも望んでいない拘束をその想像上の男集団から受けている。

でも、実は各人が想像する「男」が一致するはずもなく、「男」という名称の他は非常に脆いものでしかない。だから目に見える、形のある共通の「敵」、非「男」が必要になる。それで反射的に「男」アイデンティティを共有し確証できる。

「日本人」アイデンティティ、ナショナリズム、外国人嫌悪も同じ。外国人という共通の「敵」、「異物」、非「日本人」を名指し、徴付け、排除対象とすることで反射的に「日本人」アイデンティティを確証し安らごうとする。でも、それは不安定なものでしかないから「生贄」を探し続ける。

同時に、ネオリベ社会はその不安定さを加速させるから、日本の場合は90年代後半以降、とりわけ21世紀に入って以降、ナショナリズムやミソジニーはじめ反「多様性」意識が、社会の建前や実践的な変化と並行して噴出してきた。

経済的にはネオリベで利益が上がり、その不満からナショナリズム/保守勢力が政治的な利益を得るというグロテスクな共謀関係が、制御不能な暴走と分断を生み出しつつある。日本の場合、加速させたのは安倍政権だっけど同時に暴発の抑えにもなっていたんだよな。

とは言え、政治の軸、重心が右にズレてしまったままではもう抑えが利かないということが見えてしまっているのが20年代の状況だし、その先の姿を見せているのがアメリカの状況。一気に押し戻すのは現実的でないにせよ、具体的なところで闘っていくしかないのだろうな。

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