ジェンダー・アイデンティティを考える視点

LGBT理解増進法案で議論の時に「性同一性」についての保守派の発言を見ていて混乱してきた。性同一性障害を念頭に異常・疾患の概念に閉じ込め医療化したいスタンスのものがあるかと思えば、性自認でも性同一性でも同じgender identityの訳語で誤魔化しだというものもあり。もしかしたら同じ人でも両方言っているかもしれない。

どっちであれ、出生時に判定された性別のまま男性化し又は女性化し、家庭を築き生殖し子を持ち育てるという性別規範、家庭/家族規範をどうしても維持をしたいし、そうでないとその規範の下でアイデンティティを構築した自分が否定されるぐらいに思っているのだろう。「構築された」アイデンティティだが。

だから、異性愛ではない性的指向も、出生時に判定された性別とは違う性自認も、医学的に説明される特殊・異常例であるか、後天的に獲得された可変的なものであるかでないと、彼らのアイデンティティと、その前提と整合しない。でも、そのアイデンティティこそまさに構築されたもの。

乳幼児・子どもは出生時に判定された性別で呼びかけられ続け、性別化された家庭空間そして社会空間で育つ中で男女の区別を認識し自分の性別を認識する。当初は漠とした「好き」という形だが性欲が異性に向くものだと学習する。その認識が固まっていき自覚的になっていくにつれて違和が生じ得る。

それが、「男らしさ」「女らしさ」の規範、ステレオタイプに対するものであるかもしれないし、性的指向、性自認の領域のものでもあるかもしれない。その子ども・人を取り巻く性別規範のあり様や強度によって、その違和から生じる混乱も変わり得る(性的指向と性自認の混乱など)。

そもそもが、生殖を特権化し、オスーメス、男ー女の二分法を特権的な差異とし、その二分法と規範とが再帰的に強化し合い、社会も家庭も否「自然」も性別化されたからこそ矛盾も違和も生じるのであって、違和を覚える個人の方が「逸脱」している訳ではない。

「性のグラデーション」と言われることがあるように、生物学的・身体的にも精神的にもオス-メス、男-女の二分法に回収することに無理があって、まさに人為的な区分なのだ。確固たる生物学的・身体的基盤の上にアイデンティティが構築されていると考えるのは幻想に過ぎない。

だからと言って、今すぐ性別の二分法をやめましょうと言うことはもちろんできないのであって、規範的に正常視されてきた性的指向と性自認のあり方を絶対化するのも、その規範に適合しないあり方を異常視し、差別・排除し、抑圧し、不可視化するのはやめましょうよということ。

「マジョリティ」にとっては規範が相対化することで自身のアイデンティティの揺らぎを経験するかもしれないし、上に述べた通り殊更にその不安・恐怖が大きい人もいるだろう。

しかし、「マジョリティ」のアイデンティティの安定化と引き換えに「マイノリティ」は多大な適応努力を強いられ、ある人は苦悩・苦難の末に命を落とし、ある人は自分を麻痺させることで適応し、ただその中でも無意識に無理をすることで精神・身体症状に悩む人もいる。

そうしたことへの想像力を持たず、目を背け、「マイノリティ」に負担と犠牲を押し付け続けるのはあまりに自分勝手じゃないかということ。あからさまな差別だけでなく、自分が自明とする規範やあり方に縛られ無自覚に「マイノリティ」を傷つけているかもしれないことを自覚しようということ。

LGBT法案への反対・慎重論が唱えられ、特にトランス女性について云々されていること自体に、こうした差別の実演、しばしば無自覚の差別の実演があるということを一歩立ち止まって考え、想像を巡らせるべきだ。結局さらにおかしな修正がされて成立してしまったのだが。

自分自身のアイデンティティだって反復強化による構築物であって、実は男らしさ・女らしさや性的指向・性自認を含め違うあり様を否認、抑圧してきたのかもしれない。そこにしがみつくか、自由になるかは自分次第だが、その自由が他者の犠牲と引き換えのものであってはならない。

歴史的に構築され反復・強化されてきた男女という性別の規範と制度の水準と、その規範と制度を前提とする社会で現に生きるという水準と両水準はしばしば混線するけど、丁寧に議論する必要がある。例えば性別の規範が構築物だと言うだけで性暴力がなくなる訳でも被害者が傷つかなくなる訳でもない。

あるいは、トランスジェンダーが女性性/男性性を強固に身につけることがあったり、過度と思えるほど表出することがあったりする。あるいは同性間の関係で男性役割と女性役割が引き受けられることがあったり、ゲイの女性嫌悪、レズビアンの男性嫌悪が問題化することがあったりする。

だからと言って、トランスジェンダーという存在や同性愛者という存在が否定されたり否定的評価を受けたりするのは誤りであると同時に、ステレオタイプの強化や女性嫌悪・男性嫌悪を批判してはならないということにもならない。と同時に、そう適応せざるを得なかった背景を無視してもならない。

この社会において男女どちらかの性別を引き受けたい、そう認知されたいと願うことは、男女どちらにも括られたくないと願うこと同様に否定すべきことでは当然ない。ただ、男女という区分を自然、本質と捉え絶対化、固定化することは、実践的には個人の行為の集合的効果と切り離せないが、別の問題だ。

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