「被害者」の証言をどう聞くか?(適宜加筆)

被害者あるいは何らかの被害者性を帯びた人の証言の場合、当該の体験を受け止めきれず記憶の欠落や抑圧があったり別様のストーリーに置き換えられたりしていることは珍しくないし、回復状況やその後に起こった変化などにより想起される記憶の内容や意味づけ、重みづけも変わってくる。

あるいは、別のことで非難されることや自分の落ち度を過度に責められることなどを恐れて、全ては話さなかったり改変を加えたりすることはあり得るし、それが無意識の防衛としてなされることもある。そしてどう話すかは本人の安心感/不安感、聞き手等への信頼感/不信感などの程度によって変化し得る。

だから、被害者等の証言はいつ、どこで、誰に話すかによって変わり得るし、どのような質問・コメントが向けられるかによっても変わり得る。既に聞き手が強い想定や期待を持っている場合に、それに合わせるということも起こるし、それは理解されることの断念、諦めとしてなされる場合もある。

被害によって既に傷ついているために、さらに傷つけられること、否定されること、非難されることなどを避けたいと思うこと、あるいは無意識にそうすることは自然であるし、典型的、規範的な被害者像から外れてはならないという明示的または暗黙的な圧力あるいは期待もしばしば感得される。

こうしたことで被害者が黙らされたり、傷を深めさせられたり新たな傷を負わされたり、そもそも声を上げる、発することをあきらめたりといったことが繰り返されてきた。

言動の曖昧さ、揺らぎ、矛盾を文字通りに捉え、そのままに理解したり信用性を欠くと断じたりすることは必ずしも妥当でない。どのような状況、文脈、タイミングでのものであるのか、どのような体験、経緯、背景があるのか、時に主観的世界を想像したり補助線を引いたりしながら解釈する必要がある。

それは意思表明や証言のような公式性、公共性を帯びる言動についてもそうだ。ことにそれが被害者など過酷な経験をした人やそういう場面の目撃者である場合には。むしろきれいに整っている場合こそ信用性が疑わしいことや、曖昧さ・揺らぎ・矛盾からこそ真実や真意が浮かび上がることが少なくない。

逆に、例えば加害者とされる者や第三者が被害者の証言を否定する場合、あるいは利害が対立・競合する者が相手の意思表明を否定する場合、整っているからこそ作為を疑うべき時があるし、合理化の機制が働いていないか、立場性による歪みが生じていないか等慎重に見極めるべき場合は少なくない。

そのような敏感さ、感受性を欠いて、自分の見立てや利害、願望に無意識的にせよ縛られて、都合のいい証言は留保なく肯定し、都合の悪い証言の信用性は無条件に否定する態度は不適切である。結果として見立て通りであったとしても、それは偶然の一致に過ぎず、合理的な判断ではない。

合理的に判断するといっても、その過程においては相手の主観的世界に寄り添いまた想像をすることが必要になり得るし、むしろ客観性に基づいて判断したかに見えるものこそ判断者の主観、ことにその歪み、偏りに拠っているということは珍しくない。


散々意に沿わない見方や証言を決め付けで頭ごなしに否定、非難してきた者が自分の紹介した話を信じてもらえないと憤っているのだけど、その話には判断材料が足りないことは明らかだし、その者のこれまでの論じ方からして結論ありきの都合のいい解釈で話を再構成していると疑われても仕方がない。

例えば、性犯罪被害者や元「慰安婦」の証言に矛盾があるとか、証言が変わったとかをあげつらって信憑性を頭ごなしに否定してみせるというのは典型的なやり方だけど、被害者の心理などの知識を持って証言の筋を辿れば、矛盾や変遷が否定の証拠になるどころか被害故のことであることが理解できる。

ところが、特定の解釈に沿って妙に整い過ぎていたり、あるべき情報が不自然に欠けている証言は、つまり被害者であれば起こり得る合理化や記憶の再構成、記憶の欠落・想起困難では説明がつきにくい類の不自然さが見られる場合、判断を保留しさらなる情報や別の証言を求める必要が出てくる。

つまり、証言を聞いたり読んだりする者の基準で細部をあげつらったりするのではなく、被害者・証言者の主観世界を想像してそのストーリーを解釈できるかが問われるし、その想像はもちろん「神の視点」のようなもの、独りよがりのものであってはならない。

そうは言っても、聞き手・読み手が自身の立場性から自由になることは困難であるし、想像力の限界も当然ある。むしろ何でも想像できるかに振る舞うのは傲慢であり、それこそが誤った解釈を導くものとなる。

精神科診療やカウンセリングの場面、家族や友人の相談を受ける場面では、まず相手の話を肯定するところから入ることが重要になるが、証言の真偽をオープンにジャッジするような場面においては、見方や疑問の提示又は追加情報の要請を超えて、即座に肯定又は否定から入ることには相応の根拠が必要だ。

ところが、解釈者が自身の知識や想像力の限界を自覚しないままに頭ごなしに否定してみせたり、逆に盲信的に肯定してみせたりということがしばしばおこる。一方、否定されたり疑問を示されたりした証言者が自分の解釈に偏りがあることの自覚がないままに相手の悪意を想定して反発することも起こる。

具体例に即さないとなかなか伝わりにくい話ではあるけど、例えば、女性支援団体叩きをする者が鬼の首を取ったように取り上げる元草津町議の件。正直私は当時、元町議側の話だけでは判断ができないと思いつつ、町長側の否定の仕方が加害者のパターンとあまりに似通っていることは感じた。

また、町長を擁護し元町議側を非難する側の言動も典型的な二次加害者のそれであると感じた。このツイ↓は当時別アカで書いたもの。当時元町議側に付いた人たちも町長の否定の仕方や擁護側の言動に違和感を覚え、相対的に元町議に信憑性があると判断したのではないだろうか。

同時に、「虚偽告訴」が事実であったとしても元町議の証言を全否定できるものであるのかは未だ判断できないと思っている。そのことは起訴時にも書いたし、読み返してみるとこのスレと同じようなことを書き連ねていた。


虚偽告訴が事実だったとしても動機や背景には微妙なものがあり得るし、告訴された側に過失やトリガーとなる言動がなかったのかも不明。その想像力を持つべきだが、否定ありきで叩くという、事実が認定された事件でもなされる性暴力否定とセカンドレイプの典型的構えで攻撃した者が勝ち誇るのは違う。

当時も細かく追えていなかったので、一般論的にしか言えないけど、今ドヤ顔で勝ち誇っている人たちは、性暴力・セクハラの訴えがあると否定ありきで叩いてきた人ばかりで、事実が認定され決着しても攻撃をやめないタイプだから違和感しかない。

一方で、誠実に検討して事実だろうとの心証で取り組んだ人は別として、断片的な情報のみで飛びついて事実だと決め付けて攻撃的、扇動的な言辞で当事者・関係者を叩いた人は問題だし、この種のことは事実であってもなくても行き過ぎだ。真偽不確かな1本の記事だけ、見出しだけでというのもよく見る。

一般論として、性暴力・セクハラの加害者と名指された人が真に潔白であってもどう反論し否定するかは難しい場合があるし、そこにミソジニーが表れたり、加害者の典型的パターンをなぞってしまったりすることがある。それでむしろ疑いが深まることがあるし、外野が加わるとさらにややこしくなる。

性暴力を否定する典型的な論法が被害者の証言が一貫していない、矛盾しているというものだが、それは当たり前のことであって、記憶が欠落していたり今の自分が耐えられるようにひどい記憶が改変されていたりということがあるし、突然記憶が蘇ることもある。正確な記憶はむしろ回復を妨げ得る。

性暴力も虐待もそうだが、自分を守るために理解できるように出来事の意味付けをしたり(「あれは愛情表現だった」とか)、逆に自分が悪かったのだと自責を激しくしたりすることもある。それが言葉通りに受け止められてしまうと、被害の訴えに際して「前と言っていたことが違う」などと言われてしまう。

また、被害者の言動に対して周囲がそれは性暴力ではないか、虐待ではないか、DVではないかと指摘して、やっと本人も出来事を被害として意味づけ直すことができる場合がある。これに対して、加害者側などが「誘導だ」「洗脳だ」と言い出すこともある。アンチフェミや共同親権派などに見られること。

話を戻すと、被害者の一貫性のなさや矛盾、混乱は、それだけでは被害を否定する根拠にはならず、むしろ深刻な被害の存在を疑わせる傍証になり得る。逆に、AV出演被害を巡ってよく書いているが、ストーリーが整っているからといって被害がない、被害者ではないと断定もできない。

一貫性のなさ、矛盾は元「慰安婦」の証言に対してもしばしば言われてきたことで、それで証言は信用できない、虚偽だと言われ、「慰安婦」問題や日本の責任を否定する根拠であるかのようにされてきた。これも性暴力被害やそのトラウマに対する認識を欠いた底の浅い、浅すぎる議論だ。

今回の件の裁判はこれからで、そこでどう事実認定がされ判断がされるのかは予断を持つべきでないが、性暴力を否定したい者は今後何か事件や訴えがある度に、「あの事件みたいに嘘なんじゃないか」と持ち出してくることが容易に想像できる。それはあまりに短絡的で、無知を晒すものだと予め言っておく。


元町議は「肉体関係」はなかったとした上で「胸や太ももを触られた」と主張。町長は「指一本触れていない」と主張。事実関係はまだ争点で、元町議が虚偽を述べた動機又は事情(精神疾患含む)もまだ明らかになっていない。記事が元町議の名前を出していないのも少し気になる。

草津町事件の件、記事を読まずにあるいは都合よく読んで「虚偽認める」の部分だけで勝ち誇っている奴ばかり。かつ、疑惑の否定を超えた、セカンドレイプと同型の状況が草津町長や擁護者の言動にあって異様だったことは事実だし、ネットでは継続中。そのことは無視というか、正当と思っているんだよね。

性交は虚偽でも、元草津町議と草津町長との関係性や性的接触含む他の言動の有無など事実関係の全貌が判明していないし、元町議の非難可能性の程度がまだ判断できない。あえて言えば精神疾患の可能性を含めた事情、背景が明らかでない(あるいは明らかにできない)段階で発言を控えるのは当然では。

↑最後の文は本当は書きたくないし、通常はあえて書くべきことではない。ただ、当時の元町議支持者・擁護者を叩く材料として、決めつけで沸いている現況では触れざるを得ない。


吉峯耕平弁護士の草津町の件の長いスレだが、元町議の「告発」の信憑性を十分に確認しなかったといった過失としてではなく、悪意と通謀の存在、しかも元町議擁護や町長非難というよりも「勢力拡大」の意図を前提に置いて、「作戦」として描いている…。

性暴力の「虚偽」告発への同調の問題として責任を云々しているのならば丁寧に取り上げようと思ったのだが、完全に陰謀論としての、陰謀論を前提においての主張。ミソジニー、男の被害者意識からのものでしかなかった。

まあ自覚ないし省みるつもりもないよね😓

ところで、「被害者」に寄り添う姿勢がなく、ただ決めつけてあるいは乗じて騒ぐのは当然許されないが、そういう過激な声で代表させるのもこういう連中の常套手段だし、それと対比して吉峯の論(というか物語り)が正当化される訳ではない。


結局ね、元「慰安婦」の証言に執拗に疑義が突き付けられてきたこともそうだけど、性暴力被害者の記憶・想起、語り・証言や行動についてあまりに無知・無理解で、極端な無矛盾・一貫性を求めるのよ。そういう経験がなくても人の記憶やその意味付け、重みづけはその後の経験などによって変容する。

性暴力被害者(他の重大犯罪の被害者や災害被災者などにも当てはまる)は被害の認識、受容、回復などの段階や程度によって、被害やその前後の記憶が想起可能か抑圧されているか、どのように意味付与されているか、あるいは被害と関連する物事に対してどのような反応、言動を取るかなどが変わってくる。

辛い体験について自責の念が強かったり「被害」ではないと合理化したりしていたのが性暴力被害として捉え返すことで、被害の前後の出来事や自分の心理の意味付けや表現、力点の置き方なども変わり得るし、新たに語られる内容も現れ得る。一見語りに矛盾があるが、各々の文脈を捉えれば了解可能になる。

より卑近な例を考えれば、信頼していた人に実は騙されていたという場合、それに気づく前はその人を褒めるストーリーを語っていたのが、騙されていたことに気づいて、いろいろな出来事の意味が違って捉え返され、その人の悪意を示すストーリーとして語り直されるだろう。

以前は思い出しもしなかった出来事が重要なエピソードとして位置付け直され、逆によく語っていたエピソードが無意味なものとして想起すらされなくなったりもする。事情を知らない人からすれば「前と随分言ってることが違う」と見えるが、騙されていたことが分かったということを知れば了解可能になる。

この種のことはここまで劇的でなくとも日常生活でもよく起こっているし、記憶が遡及的に再構成されて、前にどう言っていたか、思っていたかは覚えていなくて最初からそう言っていた、思っていたと思っていることは少なくない。それで日常生活に支障はなく、他人と話が食い違った時に気づいたりする。

元「慰安婦」や性暴力被害者だったり、対立する意見の持ち主が相手だったりして、とにかくその証言を否定したい、証言主の信用を貶めたいとなると過度な無矛盾・一貫性要求が全面化し、かつ証言を文字通りに受け取ることに拘り、適切な文脈に置いて解釈するのを拒絶する。誘導、洗脳と言いもする。

ミソジニーが強く、性暴力被害者の心理・行動への理解も欠くから、恐らく自分が過度な無矛盾・一貫性要求を立てていることも、適切な解釈の方法を採っていないことにも気づいておらず、「正論」を述べ妥当な「追及」をしていると思っている。それが被害者の傷を深めることを想像だにできない。

なお、ジャニー喜多川氏の性被害者の信用性を疑義に晒す者の中には、PENLIGHTが声を上げているが故にそうする者、立憲民主党がヒアリングをしたがためにそうする者が少なからず見られ、ミソジニーやアンチリベラルを介している。あるいは、女性の性暴力被害者を叩く延長でそうしている。


被害回復のために主張させることがミソジニーを後押しすることになる。これを躊躇なくできるのは産経ならではと思った。「被害者」「被害者遺族」の取り上げ方が難しいのはこういうところもある。事件の種類が違うが光市事件の遺族のことを思い出した。

ただ、教訓は、こうやって利用されるから、決めつけて過激な言辞を用いるのはダメということ。とは言え、切り取られて都合のいい文脈に置かれている発言、文章が非常に多い。当事者だけでなく第三者の被害者意識が異様に膨らんだ事件であり、ミソジニーによる先取りが強いことは押さえておきたい。

加害者と名指された人の反応を含め典型的な性暴力、セクハラの構図に見える事件だったから、数多く見てきた人、体験した人が疑わしいサインを見落とした、過小評価したのであろうことは否めない。あるいは、疑問を口に出しにくい雰囲気もあったであろう。これらのことは冷静に振り返る必要があろう。

その反省をどう表明するかは、現下のネット・SNS環境、バックラッシュ状況ではまた悩ましいこと。ミソジニスト、アンチフェミにとって象徴的な事件にされてしまっているので、何を言っても、言わなくても格好の材料にされてしまう。その意味で十分な被害回復を妨げているのは誰かという問題もある。

虚偽の訴えを行った動機や背景がいまだ明らかでなく、センシティブな要因もありそうに思えるので、虚偽の訴えをしたこと自体については当然責任を引き受けるべきであるが、単純に非難・断罪できるものかは現時点では保留しておきたい。

一点話を戻すと、「性暴力被害者の言うことをまず信じること」、信じた上で傾聴し寄り添うことと、それに基づいて公にどう発言するかとは位相を異にする。特にリアルタイムで信じたままに発言することには細心の注意が必要。性暴力被害者へのバッシングが酷い状況があるという事情があるにせよ。

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