「表現規制反対派」の変質/構成変化とネトウヨ

ネトウヨが出てきた時、子ども買春・子どもポルノ禁止法への反対以降の表現規制反対派とパターンが似ているなと思ったが、まだその頃は表現規制反対派はリベラル色が強かったし、ネトウヨやネトウヨ的な政治家らを批判、攻撃する者も少なくなかったと思う。今はだいぶ重なり合ってきたように感じる。

2010年の都条例改正案、いわゆる「非実在青少年」問題でツイートしたこと。当時は明白に石原都知事・道徳的保守派対表現規制反対派の構図で、私は当然石原に同調しない一方で、表現規制反対派の主張の仕方にも懸念を示していた。この当時からだいぶ変容しつつ進んでしまったと思う。

「非実在青少年」問題も暇空茜問題の前史の一つなんだけど、いま表現規制反対派が真っ向から対するのが、女性・子どもの人権に基づく法・施策・活動等でありそれを担う団体、政治家等であり特に女性、フェミニストであって、保守派・保守寄りの者が表現規制反対派と明白に共闘又は合流している。

ふと思ったが、子ども買春・子どもポルノ禁止法案への慎重派の急先鋒が当時民主党の枝野幸男さんだったのだけど、この最近の変化を感じ取っているんじゃないかという気がする。対して、それを感じ取らず又は気にせず突き進んでいるのが立憲民主党の一部の国会・地方議員や候補者。

私へのクソリプで多いのが「共産党」関連だし、暇アノンの分析・記述をすると「モリカケさくら」「小西文書」になぞらえるのがテンプレになっている。「AV新法」でもそうだったけどクソリプのネトウヨ率は高い。

表現の自由であったりセックスワーカーの権利であったりを真摯に追求している人たちは、特にこの10年の変化をどう捉えているのだろうか。彼らのする典型的な批判は「保守派と結んでいる」「保守の規範・道徳を取り込んでいる」というものなのだけど。

保守・ナショナリズムと新自由主義が手を組む格好になっているのがここ10年余りの顕著な特徴だが、それと並行する形でミソジニーも顕わになっている。保守・ナショナリズムや新自由主義によるフェミニズムの取り込み、馴化が一部フェミニストからの批判の強調点だがそれがミソジニーに利用されている。

この時、この批判に含まれる保守・ナショナリズム・新自由主義批判の部分は都合よく切り捨てられフェミニスト批判だけが切り出されるし、そのミソジニーが主として向けられるのは、保守・ナショナリズムと新自由主義に同調せず馴化されない女性たちにである。そこが見誤られていないか。

この時、この批判に含まれる保守・ナショナリズム・新自由主義批判の部分は都合よく切り捨てられフェミニスト批判だけが切り出されるし、そのミソジニーが主として向けられるのは、保守・ナショナリズムと新自由主義に同調せず馴化されない女性たちにである。そこが見誤られていないか。

確かに、保守・ナショナリズム・新自由主義に取り込まれるようなフェミニストの主張や取り組みは見られるし「ポスト・フェミニズム」批判は妥当するのだが、その射程を広く取り過ぎて、保守・ナショナリズムと新自由主義に同調せず馴化されない女性たちまで批判し切り捨てるものも少なくない。

そのような射程の広すぎる、矛先を誤った批判はミソジニーに、女性を保守・ナショナリズムと新自由主義に取り込み利用しようという圧力に好都合なものとなる。これは表現の自由擁護の見地からの射程の広すぎる批判も同様である。

Colabo・仁藤夢乃さんらに批判的なスタンスを取ってきた、あるいは仁藤さんらとは逆の意味でAV出演被害防止・救済法に反対・慎重のスタンスを取ってきたフェミニストやセックスワーク論者は暇空茜問題から距離を取っているが、このミソジニーを批判し戦う姿勢を表明するか、できるかは試金石だと思う。逆に、その表明があった時に、Colaboを擁護し連帯する側の人たちが歓迎し共闘できるかも同じく試金石だと思う。

まあ、以上はいろんな方面の受けが悪いだろうこと、それ以前になかなか目に止まらないだろうことを書いているけど、私としては本質的な部分に触れたと考えている。

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