松本人志の性加害に関する報道について

サブスクで全文読めるようになったら詳しく見たいが、無料部分を読んだ限りは、偶発的に起きたことの告発ではなく、告発者が複数おり、慎重に取材を重ねた様子も窺え、松本人志の性加害とそのためのセッティングという大筋の事実は確かなのだろう。

まずは、松本はじめ加害側と各事務所が、主観的にどう思っていた、どういうつもりだったとかではなく、事実関係を速やかに明らかにすべきだ。雰囲気だけの松本擁護や被害者バッシングをもたらさないことが肝心。

これ、性被害のことを全くわかってない者の典型的反応だし、ここから陰謀論のような被害者叩きと加害者擁護が起こるということが何度も繰り返されてきた。暇空はジャニー喜多川の性加害についても同じことを言ってきた。

「〇年前の話だから」ということを真偽判断の基準にしたり、被害者の告発の動機を疑う理由にしたりしないということは性暴力・性虐待・性犯罪の告発、告白を扱う時の大前提、大原則。

「松本人志ならある」「後輩芸人が動くのはある」という感覚は私も多くの人と共有するし、松本が性暴力、セクハラはじめジェンダーに関しておかしな発言、加害者目線での発言を重ねてきたことが傍証のようには思う。ただ、情報が限られている段階で印象のみで突っ走るのは危うい。そこは気を付けよう。

ほら、こうやって妄想の上に妄想を重ねていくのが暇空。どこにも事実がないし前提知識も全くない。「文化」なんて自分の好きな、自分に都合のいい性差別的な表現、慣習等といった歪んだものでしかない。自分らの加害性、差別性を否認してフェミニストなどに投影して被害者意識を膨らませているだけ。

問題はこういう歪んだ認知、思考を一定程度共有する者たちがいて、エコーチェンバー、フィルターバブルで信念が強化されていること。結局、特に10年代以降耕されてきたこうした土壌があって暇空問題も大きくなった。そして、松本人志や松本的、吉本的お笑いの支持者が共有しやすい部分があるのも厄介。

これ、今後頻出するであろう論点のすり替え、問題の矮小化の一つのパターンを予告するもの。「慰安婦」問題における「強制性」を巡る議論とも重なる。

「問題は……性的強要があったかどうか」「客観的証拠はない」。

ここで「強要」が狭い定義で論じられ、被害者の「落ち度」等の話になるだろう。

不同意性交等罪導入やAV出演「強要」問題での反論とも重なるが、「性的強要」が狭く有形力の行使やあからさまな脅しなどに矮小化され、場の雰囲気、心理的圧迫感、諦めといったことや、加害側の認知の歪みといったことは捨象される。あるいは、「不穏な空気を察したはずが何故残った」のような非難。

そもそもが吉峯は「訴訟で決着をつけるしかないのではないか」という一足飛びの仮定を置き、犯罪成立の真実性の立証可否が判断基準となるという話にすり替えていく。あたかも、「強引だったかもしれないがコミュニケーションの範囲」「無理やりではない」といった言い訳を想定しているかのよう。

『文春』記事が事実であれば、性的目的で場を設定し、性的目的も松本の参加も知らせないなど十分な情報を与えないままに女性たちを誘い込んだ訳であり、犯罪が成立するか否か以前に非難可能性がある。性的行為の場面のみに絞り、「強要」の有無だけを問うて済む問題ではない。

刑法上も民法上も女性を性的対象物と扱うことのみでは必ずしも違法、不法とはならず、個別的具体的事情に照らして判断されるが、今回の論点はそこだけではない。著名芸能人が立場を利用し、計画的・策略的に、女性を性的対象物として扱ったのであれば、それが社会的に許容されるのか、がまず問われる。

「犯罪」でなければいいじゃないか、「強要」がなければいいじゃないかという話ではないし、法的評価如何以前に、被害者が「被害」と認識しているのであれば、それに対して松本らがどのような態度、対応を取るのかが問われる。それは被害者が当時被害と認識していたかどうかとはもちろん関わりない。

松本人志の「女性との性的行為に関する記事」とした上で、「当該事実は一切なく」とのみ。何を否定しているのかが極めて不明瞭。

否定対象を特定せずに「事実無根」と追及を遮断して、時間のかかる訴訟に説明、解明の場を移して風化させようという意図にも見える。性的行為があったとされる瞬間だけが問題なのではなく、そこに至る過程、そこから逆算された計画・策略の全体が解明の対象。松本、吉本などはまずそれを説明すべき。

何を否定しているのかを曖昧にしつつ、「性的行為に関する記事」と絞った吉本の声明を見るに、性的行為があったか、それが「強要」なのかという断片に話が狭められようとしているのかなと。このスレで書いた方向のすり替えた議論はされるだろうし、声明は後追いするなよというメッセージでしょうね。

性的目的で、計画的・策略的に飲み会が設定されたこと、それを隠して女性たちが誘い込まれたこと、これらが事実であるのかどうか、ここがまず明らかにされるべきと思いますが、その辺りをすっ飛ばして、性的強要が事実か、告発の動機は何かの話になって松本擁護と被害者叩きになる展開は予想できます。

性暴力被害に関する初歩の初歩の知識が欠けている。被害に遭ったことを否認する、平常通りの振舞い・行動を取る、加害者に対して何もなかったかのように接する…被害直後によく見られることであって、それをもって加害事実が否定されるものではない。

やはり、「察しろ」「分かっていただろ」という類の被害者非難が出てきている。仮に察していた、分かっていたとしても、いかなる性的行為にも予め同意したことにはならないし、拒絶権を放棄したことはならないのは当然。被害者側に警戒・防御の義務を課す、不当な話のすり替え。

要は、「男の部屋に行ったのはそういうことだろ」という古典的な、今なお根強い加害者側の、加害者目線の認知の歪みでしかない。さらに言えば、性風俗従事者、売春者は拒絶権を放棄している、予めいかなる性的行為にも同意しているというバイアスとも重なる。

松本人志の性加害に関する噂話はいろいろとあったのだろうと思うし、繰り返される性差別言動からは日常場面含め全くないことはあり得ないと思う。ただ、松本や吉本を敵に回して報じるだけの裏取りができなかったり握りつぶされたりもあったのかもしれない。確かな証言者が出てきての記事と思える。

被害者へのバッシングが激しい中でも、芸能界を含め性暴力の告発が増えてきて、被害者が一定のサポートを得られる状況もできつつあるという背景があっての告発、記事掲載というように思うし、数々の事件や刑法改正等の議論を通じて「被害だった」「訴えていい」との気づきが得られたのかもしれない。


何で今さらというのは典型的な無知。「自分も悪かった」と合理化して封印したり、むしろ自分を責め続けたり、そもそも「被害はなかった」ことにしたり、被害の認識はあっても「訴え出ても無駄だろう」という無力感があったり、捜査や裁判への不安や不信があったり、思い出し続けたくなかったり。

性暴力被害者は「その体験」「その記憶」とどう折り合いをつけ日常生活を送れるようにするか、人生を歩んでいくか、意識的あるいは無意識的に葛藤する。それでうまく処理できる場合もあるが、被害として長く苦しみ続けたり、被害の記憶と意識的には結びつかない症状に悩まされたりする。

性暴力被害に「決着」をつけないと前に進めない、心身の不調が被害によるものだと気づく、被害に遭ったことを思い出す、被害だったのだと気づく…きっかけは様々だが、ただその時に心身の状態、仕事や生活の状況、サポートの有無等々条件が整っていなければやはりアクションを起こすことはできない。

むしろ性暴力被害だったと気づくことで心身に不調をきたすことや、安心できる環境があるが故にフラッシュバックや症状として前景化することなどもある。訴え出ると決めたらまた新たな不安や恐怖にも襲われる。そういう様々な段階、プロセスを経て、懸念をクリアしながらやっと動き出すことができる。

それで、じゃあ警察に行けばいいのか、弁護士を立てて相手側と交渉すればいいのか、提訴すればいいのか。それらはむしろ傷を深めたり、長く被害の記憶と向き合うことになったりするリスクがあり、しかも結果はわからないし、適切な対応、判断がなされる保証がないのが現実だ。

もちろん、マスコミに頼ることでバッシングに晒されたり身元特定を図られたりするリスクはもちろんある。ただ、表に出すことで、衆人環視の下で相手側に対応をさせることができるかもしれない。被害者が必要とする「決着」も処罰、賠償、謝罪、加害と認め責任を認めることなど一様ではない。

一方で、高級ホテルでの「VIP」との飲み会がただの「飲み会」であるはずがなく察するのが当たり前とかわかってて行ったのだろうといった典型的な非難も目立つ。仮に分かっていた、察していたとしても、それは具体的な性的行為に予め同意したことにはならないし、拒絶権を放棄したことにもならない。

そもそも、性的目的で予め仕組まれた飲み会で、松本人志の参加が伏せられ、現場でも携帯が回収される等計画的、策略的に運ばれたのであったとしたら、女性側の「落ち度」などを云々する遥か以前に、松本側の行動が問題化されるべきであるのに、その行動は所与のものとされて女性側が非難される。

「芸人はそんなもの」「男はそんなもの」というのが誤った認知であり、それを前提としてはならないのだが、そこはすっ飛ばされる。古典的な「男の部屋に行ったのだから」「風俗嬢だから」「売春しているから」「AV女優だから」何をされても文句は言えない、女性側の落ち度、責任だという歪みと同じ。

高級ホテルでの豪華な飲み会が性的行為の対価であるかに言う者もいるが、参加に同意したからと言って上に書いた通り性的同意には当然ならない。仮に対価だと示されていたのであればそれこそ違法なものである買売春であるし、飲み会を設定した者は周旋罪に該当し得る話になる。

弁護士ですらこう、というかミソジニーに駆動された「被害者」への疑義、バッシングでしかないし、まさにそれによって繰り返し被害者への「私刑」が煽られてきたし、吉峯も煽ってきたんだよ。

今回目立つのは、性的目的の飲み会があったこと、性的行為があったことは事実だと前提した上での松本人志擁護、被害者非難なんだよね。性差別言動を繰り返してきた松本の立場が揺るいだことがなかったことと併せて、まだそんな社会状況…。

松本人志の件で、「警察に行け」「何で警察に行かない」で急所を突いたつもりになっている連中ってほんと無知すぎるし、それに気づけないままに尊大に言い放っていられるのがさらに酷い。


吉峯も暇空も、このスクショで性暴力被害が否定された(少なくとも疑義が生じた)かに湧き上がっている奴らは本当に黙ってろよ。性暴力被害直後に起こり得ることを全く理解していない。なお、「幻みたいに」「本当に本当に素敵」「最後までとても優しくて」に反実仮想的な願望と否認を読むことも可能。

いずれにせよ、このスクショだけで何か言えるということはなく、逆に、否定、肯定のストーリーを立てたらその証拠のように解釈できるということなんだよ。喜び、興奮が溢れているとも、ショックを打ち消すために過剰な表現になっているとも、この文面「のみ」ではどうとでも読める。

そしてね、性暴力加害者の典型的な否定の身振りは、被害者の特定の言動を切り出してそれを性暴力否定の証拠だと言い募るというものなのよ。それを吉峯、暇空らがなぞるのは本件に限ったことではない。

吉本の何を否定しているかを曖昧にした「全否定」の他は松本人志含め説明なしできてのこれ。今のところ性的目的の飲み会は否定されておらず、被害者の認識や行動ばかりが叩かれている状況。性的行為があったことも明確に否定せず、加害・被害の不在を仄めかし「悪意の告発、報道」だと誘導するよう。

確かに。文春は「2015年9月」と書き、週刊女性の件の記事は「2015年」とのみ書いている。小沢とされるメッセージの文面は時刻含め文春に載ったものと同一だが、被害女性とされるメッセージは日が替わっていて、それが「2015年11月9日」。

仮にLINEが本物でかつ飲み会が11月8日だったとしても、このやり取りだけで性暴力被害が否定されることは当然ないし、逆にこれのみで肯定されることにもならない。飲み会があったことが確認されるというところまで。性暴力が疑われる時に特定の言動だけで判断してはならないのは初歩の初歩。

この記事を見ると飲み会は9月と11月とされ、「B子さん」が9月とされるので、「A子さん」は11月ということになるね。週刊女性が取り上げたのは「A子さん」のLINE。もちろん、他のポストに書いた通り、このLINEが本物だとしても、これだけで何か決まることはない。

事実関係を整理しておくと、週刊女性が載せたのは「フリーライターと思しきアカウントが『芸人界隈から回ってきた』としてXに投稿されたもので、小沢さんのスマートフォン画面をスクショしたものと見られている」。小沢とされるメッセージ部分は文春に載ったものと一致している。

文春記事が正しければ、性暴力被害に加えてこの文脈があってのA子さんの返信。被害直後の混乱時、自分に起こったこととどう折り合いをつけるかと加害者達への恐怖とで、大げさな表現で返信を入れておかざるを得なかった。そして、小沢が周りから味方にしようとし漏れる前提でスクショ提供の可能性か。

推測を重ねたくはないのだが、突然松本人志が週刊女性の記事に反応し、しかもスクショ部分のみ貼って意味深にポストしたというのは、小沢との「連係プレー」を感じさせる。既に年末にこのスクショは入手者がXで公開していたし、そうなるとこの入手者が「たまたま」入手したのかも疑えてしまう。

スクショをフリーライターとされるアカがアップしたのが12月29日。松本の「とうとう出たね」は、小沢がスクショを流してやっと報じられた、やっと触れられる形で表に出たという意味にも取れる。小沢の部分は文春に出ているのだからA子さんの部分があることは遅くともその時点で知っていただろう。


何を否定しているかわからない吉本の「全面否定」。小沢から流出したと思われるスクショ。「意味深」と騒がせる松本のポスト。そして、具体的説明なきまま裁判集中名目の活動休止。性暴力を巡る民事訴訟なら、という算段がちらつく。

性暴力が関わる裁判は、たとえ事実があったとしても、それが事実として認定されるか、認定されたとしても適切に法的評価を受けられるかはハードルが高いし、加害者側が被害者を圧迫したり被害者の信用性を貶めたりする戦略を取るとさらに難しくなるし被害者に係る負担が物凄いものになる。

松本人志側が性的行為の事実そのものを否定するのか、性的行為は認めつつ加害性を否定するのか、「事実無根」表明だけでは不明だが、基本的に当事者の証言に拠るしかない部分で争うのだろう。一般的に、悪意で否定するのであれ認知の歪みから否定するのであれ被害者にとって厳しく高負荷の裁判になる。

今のところ「飲み会」があったことは否定されていないが、飲み会に性的目的があったのか、性暴力の犯意とまでは言えないまでも、性行為に持ち込むための「作戦」「シナリオ」があったのかはまず明らかにされるべきだ。「性的目的があって何が悪い」という反論もあるが、その評価ではなく事実として。

2015年当時は不同意性交等罪はなかったが、ホテルの部屋で意を通じた男性たちに囲まれて、誘導的に性行為に至った場合、同罪の成立が認められるかは微妙であるし、当時の強姦罪・強制わいせつ罪はなおのこと難しい。それでも民事的には不法行為たり得る。記事にあるような拒絶、抵抗があればなおさら。

問題は、行為の時点で女性が明白に拒んだり抵抗したりしていなくても、それが萎縮や諦めであった場合はもちろん、飲み会の空気感の中で流されるままに応じてしまったという場合でも、松本側に性行為に持ち込む意図や仕掛けがあれば、不法行為たり得るし厳密な法的評価以前に倫理的責任がある。

被害女性に「わかってて行ったんだろ」「察しろ」といった非難もぶつけられるが、仮に性行為に至り得ると認識して飲み会に参加したとしても、個別の相手との具体的な性行為に予め同意をした訳でも拒絶権を放棄した訳でもないし、加害側の策略や誘導の責任が否定されるものでもない。

結局、性暴力における加害性、加害責任に対する認知・認識が歪んだ議論、性暴力被害者の心理や行動に対する無知・無理解に基づく議論が多く、様々に論点が歪められ、ずらされてしまっているし、それは松本側の訴訟戦略、メディア・世論対策にも現れるだろう。というか、既に現れている。

2015年当時の刑法あるいは現行刑法に照らして犯罪性があるか、不法行為としていかほどの民事責任が生じ得るか以前に、少なくとも倫理的、道義的に松本側が謝罪すべき状況があったことは確実だろうと思う。一方で、事実があったとしても文春記事の記述や表現が名誉毀損に該当するかは別個の論点。

仮に松本側が「何でこんなことが記事になり、大騒ぎになり、評判を落とされ、仕事に支障をきたすことになるのか」という認識ならば全くずれているのだが、その認識で裁判やメディア・世論対策に臨むのであれば、被害者側、文春側にとって負担が重くなることは上に書いた通り。

松本人志らが本心から、真摯に「事実無根」と言っているのであれば、その否定の対象をぼやかさず、松本らが捉える事実関係とそれらへの認識を具体的に明らかにすべきであるし、記者らの質問に答えるべき。問題、論点の所在を曖昧にしたままネット上やメディア上で代理戦争をさせるような現状は不誠実。

松本人志を擁護したり被害者を叩いたりする者がどこに焦点化するかは、どういう理由付けをするかは様々だが、共通するのは「こんなことで」感。ここにも根本的な問題がある。

松本人志の吉本の後輩のロザン。2人とも的確な指摘。

ホリプロコムの発表。これもどこまでを否定するのかが曖昧。飲み会のセッティングは否定せず「特に性行為を目的として飲み会をセッティング」を否定。「目的として」は芸人側の主観の話にでき、「流れでそうなった」は肯定できる。不利な証拠が出てきにくい部分に絞って否定したと見ることもできる。

なお、「特に」がどこにかかっているのかも曖昧。「特に性行為を目的」とも読めるし、「一部週刊誌の報道にあるような、特に」とも読める。

スピードワゴン小沢も明瞭な説明をしないままの「活動自粛」。代理戦争をさせておいてほとぼりが冷めるのを待とうとするかのよう。LINEスクショは小沢自身が意図的に流出させたのだろうから、現時点で手詰まりで動きが取れなくなったということだろうか。

吉本の発表と松本人志代理人コメント。客観的な証拠や第三者の証言が得られにくい部分を争点にしようとするものだと考えられるのと、吉本への取材をシャットしようというもの。

吉本は軌道修正か。チグハグ感が物凄い。「私的行為とはいえ、当社所属タレントらがかかわったとされる会合に参加された複数の女性が精神的苦痛を被っていたとされる旨の記事に接し、当社としては、真摯に対応すべき問題であると認識」。

「外部弁護士を交えて当事者を含む関係者に聞き取り調査を行い、事実確認を進めている」。「事実無根」発表は何だったのか。一昨日の「問い合わせには答えられない」などこの間の対応の問題は大きい。

「当初の『当該事実は一切なく』との会社コメントが世間の誤解を招き、何を指しているのか不明確で混乱を招いたように思う」。このガバナンス委員の指摘は私も言ってきたことだが、いかなる判断の下でどのような意図で発したコメントであったのかも明らかにすべき。



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