偶然性とAI

結局芸能人とかでも周りにどんな人がいるか、ちゃんと話をしてもらえるか、そして本人がその話を聞けるかなんだよなあ。政治家とか評論家、研究者、ジャーナリストなどもそうだけど、特定の方向に凝り固まって、先鋭化していく人との分かれ目。ネット、SNSが情報源の一般人はさらに機会がない。現実世界は偶然の機会、出会いに溢れてはいるけど、その人の行動の傾向性や先入観などでその偶然が起こる場に近づかなかったり、目の前の機会や出会いに気づけなかったりするのは昔からだ。同質集団への所属が妨げになることも多い。

ネット世界は理論的にはより偶然性に開かれてはいるしそこに楽観的な希望も見出されていたけど(1990年代)、SNSの登場と広がりは希望を復活させたかにも見られたけど(2010年代初期)、ネット上の偶然性は稀少財のようになりつつある気がするし、予め狭く限定された範囲での偶然性の方がはるかに多い。ネット、SNSが情報源となり偶然性に対して閉じていってしまうことで、現実世界での行動範囲も現実の見え方もますます水路づけられて、偶然性への開かれはますます制約されていってるのかもしれない。ネットが現実世界を補完、拡張するというよりも、現実世界の方がネットを補完し付加価値を提供する。ネットで得た期待を超える感動を現実世界が提供したりネットで抱いた思いへの確信を現実世界が与えたりはあっても、ネットで得た、抱いたものが現実世界で裏切られる、ひっくり返されることや、ネットが現実世界を、現実世界がネットを相対化する経験をすることは少なくなっているのかもしれない。

議論・対話が成立せず、次から次へと「疑惑」やら「問題」やらが作り上げられ、次から次へと根拠のない攻撃が起こり、様々な差別・偏見があっという間に伝染し…。一方で、趣味や価値観を共有する者同士は物理的制約を気にせず盛り上がり、そこから生まれるものも少なくない。ネットのこの陰陽。いくらAIが進歩し、その実装が進んでいっても、それが可能にするネットでの偶然性は「偶然らしきもの」に止まる。「外れ値」のようなものが「ランダム」に出現するとしても、それはそのメタ的な位置にある統計学に回収される。そもそも、それよりももっと「関連性」で誘う方が隆盛を誇るだろう。

相対立する意見を調停する、議論・対話を成り立たせるためにAIが使われるということも考えられるが、同時に議論に勝つため、仲間を集めるためにも使われるだろうし、そのモチベーションの方が強いかもしれない。結局はAIをどう有利に使うかの争いに陥る可能性は十分にある。もちろん、AIもIoTも現実世界への実装がますます進む訳で、以上は狭い意味でのネット空間だけの話ではないし、ネットで起こっている対立・分断、誘導、偶然性の演出等々が現実世界に浸透し全面化するディストピアも単なる仮説とは言えないだろう。うーん、暗くなってきた。

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