「当事者」からの支援団体批判の受け止め方

当事者を名乗るアカが女性支援団体や施設などを「貧困ビジネス」と同視してケチョンケチョンに言っているのはいくつかみかけるし、Colaboなどで支援を受けたとするアカやそういう人から聞いたという話を発信するアカもある。そしてこれらの話が立場性等を無視して「ありのままの事実」かに流布される。

一つには、利用者と支援者との間の「相性」の問題や、利用者の抱える困難・ニーズと支援者の専門とするところが適合しないことなどがある。そもそも利用者と支援者との間の信頼構築には時間がかかるし紆余曲折を経ることは珍しくない。その中途段階では支援者のことを悪し様に言いふらすこともある。

何年も経って「あの時の言葉の意味がやっとわかった」「あの時はごめんなさい」「あの時の行動にはそういう意味があったんだね」といった話になることは、利用者サイドからであれ支援者サイドからであれよく見られる。体験談等ではよく出てくるし、私自身もいろいろ聞いたことがある。

もちろん運悪く「貧困ビジネス」やそことつながる支援者(悪意であれ経験、専門性の不足による善意であれ)と出会いつながってしまうこともあるし、性風俗業者やスカウトが優しく受容性があるように見えてしまうことがあるように、むしろこういう者こそ入り口では信用できるように見えることもある。

逆に、支援者や先行く仲間の本人のためを思っての(あるいは、痛恨の体験を教訓にしての)厳しさが誤解され、悪く受け止められてしまうこともあるし、利用者の精神状態がそれを受け止められるタイミングになく否定的感情を持ったまま足が遠のいてしまうこともある。

いずれにせよ、当事者を名乗り女性支援団体・施設を「貧困ビジネス」と同視して、というよりも一括りにしてケチョンケチョンに言うものには過度の一般化と飛躍が見られ注意が必要だ。後から吹き込まれたストーリーで自分の体験を意味付け、再解釈・再構成しそのストーリーに統合したように見える。

支援団体のやり方などが合わなかったために悪く見えるところばかりが記憶に残っているのか、実際「貧困ビジネス」だったがまともな支援団体のみかけをしていたのかはわからないが、今の自分の境遇を説明するのに「貧困ビジネス」と悪意のせいというストーリーがはまってしまったのかもしれない。

あるいは、「良い」又は「自分に合う」団体・施設につながれなかったという悔いを否認するために「どこも一緒」というストーリーがはまってしまうこともあるだろう。いずれにせよ、自分の体験だけでその団体そのものを否定する、特定の団体・施設のことだけで支援団体・施設の全体を否定する。

他の人の話などと突き合わせているように見える場合でも、よく見るとストーリーに沿ってエピソードを集めているように、あるいはストーリーに沿う部分を切り取っているように見える。具体例は差し控えるが、そういうものは論の運び方が特徴的だ。

これは何度も書いているが、困難を抱えた女性(に限らず)の事情は様々であるし、性格はもちろんタイミングもある。だから、支援団体の側も多様な団体が多様な支援のメニューを提供できる必要があるし、アウトリーチを含めつながる入り口も多様であることが不可欠だ。行政だけでは到底できない。

そうであるから、どんなニーズにも対応でき、誰とも相性が合うような団体・施設は存在しえないし、それが正当か不当かを問わず悪い印象を抱かれてしまうことがあるのは避け得ない。付言すれば、それだけセンシティブなものであるからアウトリーチ、相談という入り口から専門性が必要になる。

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