男子中高生の「性欲」「性的妄想」は笑い話なのか?無邪気な子どもの裸の描写は「無邪気」なのか?

「男子は女子の裸を見たいもの」「覗くもの」というのが既に社会的な刷り込み。それこそ「しずかちゃんの入浴シーン」「のび太ののぞき」しかり、それを自明化し、笑いにし、「大したことないこと」にする情報や言動に子どもも大人も日々晒されている。

自虐風にあるいは「しょーもないこと」として語られることが定番化している男子中高生の性的妄想や行動、その思い出話も、笑いにしながら「そんなもの」「たいしたことないこと」にする効果がある。これらで全く無視されているのが見られる、覗かれる、セクハラされる女子の側の視点。むしろ、女子の方は「男子はそんなもの」と笑いにしたり見下したりするような言動を取ることも定番化しているが、それはやり過ごし傷つかないための防衛の面もあるし、そう反応するものという刷り込みも当然ある。過剰適応して下ネタやセクハラを喜ぶという「戦略」を取る女性もいる。

男子が大人になってどうなるかと言えば、「節度」を身に着けるものという「常識」はあるが、「大人になって男子は男子」のような言説も根強いし、動機の語彙としての「性欲」は男子中高生のそれが「爆発」のようなイメージで語られるのとは違った形で自明化される。

結局、男子・男性の性欲、性行動、性的妄想、性的眼差しがこうやって笑いを交えつつ自明化されることで、脅かされるのが女性であるということは無視あるいは過小評価される。性的に見られているかもしれない、盗み見られているかもしれない、性的侵害を受けるかもしれないという不安、恐怖。もちろんその不安や恐怖は常に顕在化している訳ではないが、気づかされる場面がこの社会では日常的に溢れているし、それは「女性の側が自衛しなければならない」「自衛を怠ることは落ち度になる」というメッセージを同時に発している。この非対称性。男子・男性の側に対しては自明化し正当化、合理化する言説、情報、日常場面が揃い、女子・女性に対してはうまく対処する負担を課すし、「大目に見ながら」も自ら「一線を守る」ことを求めるものとなっている。

性徴、ホルモン、性的欲求といった生物学的、身体的な基礎はもちろんあるのだが、それが性的欲望としての性欲として自身にも感じられ、表象されるのも性行動として現実化されるのも既に後天的な、社会的な作用の下でのことである。純粋な「性」は不可能で権力性や差別性をも帯びるもの。だから、人間の性は想像・幻想を必然的に伴う。「本能的」「直観的」と感じられるもの、語られるものも既に想像・幻想によって枠づけられ。水路づけられている。

性(的)表現を巡る問題も以上のような様々な観点、要素を踏まえて論じられるべきで、単純に表現の自由を最上位に置くこと自体に既に権力性、差別性が組み込まれている。当然ながら、それ自体権力性、差別性をはらむ(性)道徳の問題ではなく、女性や子どもの権利・利益の制約、制限の問題として議論すべき。

当然それは即座に強行的な法的規制を招き入れるものではないし、安易な法的規制は別の権力的、差別的な目的に転用、流用されたり別の不当な規制の根拠づけに利用されたりする危険がある。性(的)表現しかり、売買春や性風俗しかり、冷静な議論・対話をする前提、基盤がまだまだ整っていない。まずは、これらの直接、間接の被害の声をさらに集めること、また語られやすい環境を作ること、それらの声に落ち着いて耳を傾ける環境を作ること。SNS時代でますますハードルが上がってしまっている一方で、"enough is enough"がどれだけ続くのかというのも痛切な現実なのだが…。

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