ジェンダーと政治――「女性なら誰でもいいわけではない」は正しいか?

統一地方選での女性議員の増加を維新で説明できるからといって、女性議員を増やすことが無意味なのではなくて、維新の中の女性議員が増えることも必要なステップだし、自民の中の女性議員が増えることも不可欠なステップ。一つにはどんな属性の女性が当選したかの分析が必要。

維新馬場氏の24時間政治云々の大ズレ発言があったが、地方議会、特に小規模な市や町村でどんな女性が当選したか精査する必要がある。従来型の政治活動、選挙運動のスタイルではそれに集中できる「余裕」のある女性でなければ無理だし、子育て世代の女性には「政治より家庭、子ども」という圧力もある。維新の女性候補は比較的若い世代が多かった印象があるが、どのような規模の選挙で、どのような政治活動、選挙運動をして当選したのかは、党派を超えて参考にできるデータであるかもしれない。又は、維新という看板のおかげだったのであれば、依然として女性が選挙に出、当選する壁を浮き彫りにできる。

結局、女性議員の数値目標が有意味か無意味かではなく、その目標を達成する方策として何を優先するかが肝心だ。それは制度的な面、政党内部の仕組みの面だけでなく、全般的なまた地域毎の有権者の意識、支持者の意識の問題も大きい。数値目標を否定し「女性なら誰でもいい訳ではない」というメッセージを発することは、保守的な、ホモソーシャルな、ミソジニー的な有権者、支持者に格好の方便を与えてしまわないか。数値目標を掲げ、その意味を説いていくことの意義は、対有権者・支持者でももっと重視されるべきではないか。

国会の女性議員比率、ひいては閣僚の女性比率を高める上で、選挙区民の意識の問題は大きいし、地方議員に女性がいるかは、将来的な国会議員候補としても、国政選挙の運動基盤としても大きな要素となる。それがなければ、国政選挙における女性候補の当落はやはり風頼みという状態を脱却できない。リベラル系やフェミニストで当選した女性候補の個別的なエピソードはいくつもあるのだが、それが属人的な要素、選挙区固有の要素によるのか、横展開できる要素があるのかのケーススタディも重要で、漠然としたイメージで終わらせてはダメだ。

保守的な女性議員ばかり増えてもねとか、維新や自民のアピールばかりになってもね、という気分は私も共有するが、根っこは有権者や支持者の意識、政治活動・選挙運動のあり方、両方にまたがるが「議員/候補はいつでもどこでも顔を出すべし」といった意識と習慣にある。そこは自民的・維新的な認識では頭打ちになるのではないか。むしろ、リベラル/左派、フェミニストが知恵を絞り戦略・戦術を真剣に組み立てるべき部分なのではないか。菊地さんの指摘と重なるが、市民・社会運動と政治の接合という積年の課題(男女問わず「市民派」議員は選挙に弱い)は大きいと思う。

女性の政治家でもキャリア官僚でも「酒席は断りません」「男勝りです」では頭打ちで裾野を広げることはできない。あるいは「母が子どもを見てくれる」「ベビーシッターを雇う余裕がある」でもそう。自民が象徴的な選挙区に女性候補を投入できても数自体を大きく増やせていないのはそういうところ。維新にしてもそうで、維新的な理念に共感しかつ選挙を戦い議員活動をする余裕のある女性をさらに発掘できるかと言えば厳しいのではないか。


ジェンダーギャップ指数の順位を上げることが目標、目的になぞなる訳がなくて、ジェンダーセンシティブな政治、経済、社会になっていけば結果的に数値も順位もついてくるというだけ。同指数も当然クセがあるが、現状分析のツールにはなるし、大事なのは数値・順位ではなく変革の具体的な方策と道筋。そして、数値・順位を上げることが目的化することは顛倒でしかないのだが、「女性なら誰でもいい訳ではない」論も一見もっともらしいが、それを乱暴に唱えることはそういう女性だけでなく、その論が引き上げたい女性に対するハードルをこそより上げる。

そもそも政治であれ企業であれどこであれ男は「ガラスの下駄」(三浦まり『さらば、男性政治』)を履いているし、その自覚すらほとんどない。確かに、維新や自民の女性議員・候補者はその状況を受け入れ適応するようなものは目立つし、男の代弁者にすらなる者も少なくない。そういう女性からこそ「女性なら誰でもいい訳ではない」とか「自分は女性であることを殊更に意識していない」「女性だから不利とは思わない」とか説かれる。実際には女性という立場故の障害、苦労等があったはずなのだが、それを能力主義的に読み替えネオリベ的な適応戦略を採っている。

だからと言って、維新の「中で」、自民の「中で」女性議員・候補者が増えることが無意味あるいは有害だとは言えない。そういう政党であっても女性が増えることで変わらざるを得ない部分はあるし、超党派の女性議員の動きの受け皿が広がるという面も少なからずある。自民の女性議員はジェンダー政策の前進において確かに役割を果たしてきた。もちろん、十分なものとは言えないし、超党派の女性議員の連携に熱心な議員はなおさら自民党内での発言力が限られるという現実もある。ただ、自民や維新の女性議員の裾野が広がらないことには国会であれ地方議会であれ超党派の女性議員が連帯してジェンダー政策を推進するその力はなかなかまし得ない。

同時に、従来の、ケア責任を免れた男仕様の政治文化、選挙文化を維持したままアピールとして女性候補を擁立する自民や維新のやり方では女性議員の伸びは頭打ち。自民の女性議員比率はなかなか上がらないし、自民劣勢の選挙では途端に現職含め女性候補に不利となることはこれまで何度も目にしてきた。従来型の男仕様の政治文化、選挙文化に適応し当選できる女性は、バリキャリ、所得・資産に余裕がある、家族・親族等のサポートを調達できる等で、供給源には限りがある。他党にも言えるが、再選できない(あるいは再選出馬を断念する)女性議員も少なくなく、1回生かベテランかという傾向がある。

維新馬場氏の「24時間政治のことを」、元官僚の「飲み会を断らない女」などに象徴されるような「いつでもどこでも顔を出す」ことが重視され評価される政治文化、選挙文化、それを当然のこととして求める有権者・支持者の意識が変わらなければ、ジェンダー含む多様性にセンシティブな政治にはならない。

「女性なら誰でもいい訳ではない」はクオータ等を拒む方便としてしばしば持ち出されるように、従来型の男仕様の政治文化、選挙文化の維持と相性がよく、それに適応しようとする女性以上に抗い変革しようとする女性へのハードルを上げる。そもそもガラスの下駄を履いた男性議員ばかりの政治で、女性議員の数をまず増やし裾野を広げなければ変化のきっかけにすらならない。政治文化、選挙文化を変える「とっかかり」は保守政党の女性議員・候補にあったりもする。橋本聖子議員の出産はその一例だ。

生活者ネットであったり女性主体の運動であったりが推す女性議員は一定数いるが、市民運動が推す議員一般がそうであるように、そういう形で当選させられる議員は一つの議会で1人~数人でしかない。政治文化、選挙文化が変わらなければそれが限界なのが現実だ。世襲や地元の名家出身でも、所得・資産等に恵まれているのでもない女性が選挙に出、当選するハードルは極めて高い。政治活動・選挙運動のテクニックを学んで当選できる女性は一握りであって、それと同時に、別の戦いをする取り組みも、政治文化・選挙文化そのものを変える取り組みもどれも必要だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?