自殺や希死念慮を巡って

以下は著名人の自殺や、希死念慮が関わった事件に際してツイートしたもの。


座間事件

座間の事件でネット上の「自殺志望」に注目が集まる。一方で、本当に死にたい訳ではない、助けを求めているなどと憐憫の目が向けられ、他方で、注目を浴びたい、構って欲しいのだと冷たい目が向けられているようだ。確かにボーダーのようなケースもあるがそれで切り捨てたら糸も切れてしまう。

あまり目にしない観点を加えると、ネットで「自殺志望」を訴えるのは、意識的にせよ無意識的にせよ、自分の力では果たせない、一人では怖いといった思いがある場合もあろう。それは、死にたくない、生きられるなら生きたいということではなかろうか。それが「仲間募集」という形で現れる。遺書などメッセージを残すのも、本当はこの世に未練があり、死にたくなかったということではないか。死後の世界や生まれ変わりを信じる場合もあるだろうが、死後の自分にはどうにもできないその死の解釈や残された人たちの行く末に関わろうとする意志の表明は、生への意志、死への恐怖だ。

他にどうすることもできないから死を選ばざるを得ない。だから遺書や何らかのメッセージを残す。それは、死への最後の、絶望的な抵抗なのだろう。ネット上の「自殺志望」も死への抵抗の絶望的な現れであると同時に、逆説的だが、死に切れない自分の背中を押してくれる誰かの希求にもなる。そういう意味でも座間の事件は卑劣だ。全貌は分からないし、被害者の心情は永遠に推測の域を出ない。だが、被害者たちは容疑者と出会って、死にたくない自分を見つけたあるいは再確認したのだろう。もう後戻りできないと観念した人もいたかもしれないが、その諦念は追い込まれたものだ。

座間の事件が自殺対策にどう生かされるのかは分からない。「自殺志望」や「自殺サイト」をネットの闇と片付けても、あるいは無理矢理可視性を高めようとしても解決にはならない。差し伸ばした手がむしろ死に追いやってしまうかもしれない、そんなギリギリのところで生きる人にどう届くか。

関連して、座間事件の容疑者には当てはまらないようだが(今のところは)、死刑を求めて殺人を犯す、犯そうとする者がいる。これも、自分の手では死ねない自殺志望と同じようではある。もちろん身勝手な所業だし、そう非難することは容易い。経緯、背景は何であれ殺人は正当化できない。しかし、他力の「自殺」を求めることと、それを殺人で達成することとの間には連続性はない。が同時に、その者にとっては短絡的ということだけではない連続性があり得る。恐らく、殺人はその者にとって唯一残された、力の行使であったり、注目を集める手段だったりしたのだろう。

復讐という言い方もされるが、同じことだ。本当は死にたくない思い、生を希求する思いがすがる「自己肯定感」の唯一残された手段が殺人という力の行使あるいは自己顕示として捩れて現れた。もちろん、そこに至るには固有の事情があり、自殺志望=死刑希望=殺人の"="は簡単には成立しない。

死刑を望んでの殺人は最近も裁判があったし、世間を揺るがせた事件もあった。死刑願望の殺人について一般化してはならないし、自殺志望と一括りにしてもならない。が、希死念慮と対にある死への恐怖、生の希求や自己肯定感の喪失と希求は現れ方の違いを超えて考えるべきことがあるように思う。

三浦春馬さん

死にたいと思うこと、実際に死のうとすること、現実に死に至ってしまうこと、それぞれの間の懸隔は大きい。もはや心身が死に抵抗せずあるいは死が唯一の出口だとの思いが圧倒する、そのような状態に追い込む苦しみは安易な想像を許さない。その理解に近付くことは相応の苦しみを伴うはずだ。

情報を取捨選択しストーリーを組み立てて安易に推測してみせることは軽薄でしかなく、誤ったメッセージを苦しんでいる人たちや故人に近い人たちに送り、傷付け、追い込むことになりかねない。自死の理由を追究することは重要だが、時間をかけ、公にされるとしても故人の固有名と切り離されるべきもの。

ALS女性「嘱託」殺人事件

ALSの女性に対する「嘱託殺人」事件。尊厳死/安楽死以前に容疑者が優生思想を持っていたようであること、また営利目的の可能性もあること、これらをまずは解明すべきだろう。尊厳死/安楽死を自己決定(権)の問題として立てることの背後でどのような力が働いているかということでもある。その裏返しで、被害者が死を望んでいたとして、死しか選択肢にならない「どうにもならなさ」が病そのものではなく患者/障がい者に社会から提供される選択肢のなさや向けられる視線から来ているのならば……と考えてみるべきだ。そこに安楽死という事実上の誘いがあったとすれば「嘱託」殺人だろうか。

死んでしまえば新たな体験も感覚も思いも生じない。後悔も生じない。死はあらゆる可能性を断つ。もちろん、死を希求する人にとってその可能性はないか極めて小さく感じられ、その可能性によって苦しみを耐えることはあり得なく思えるので死が唯一の出口に見える。気休めの言葉は絶望を強めるだけだろう。安易なヒューマニズムや道徳論で希死念慮を変えることは難しいし、もし思い止まったとしてもその思い止まったことを後悔して苦しみが続きあるいは強まりかねない。また、パターナリズム、保護的な関わりでは表面的には救えても本人の従属感や無価値感を強め追い込みかねない。

死の自己決定の言説と紙一重になるぎりぎりのところではあるのだが、本人の存在の価値や意思を尊重し、選択肢が持てる条件を温情的、庇護的な形ではなく整えること。言い換えれば本人が自己否定(あるいは否定されているという感覚)に陥らない場が確保されていることが最低限必要なことだろう。唯一目に入る救いが死を手伝いますという者の事実上の誘いだとしたらそれを自己決定だとか、安楽死だとかと呼んでいいのだろうか。


三浦春馬さんの死、ALS女性の「嘱託」殺人事件で改めて「自ら死を望むこと」について考えている。死にたいと思うこと、実際に死のうとすること、そして現実に死に至ることのそれぞれの間には懸隔がある。時の経過で新たな体験をし、思い、感情も変わり得る、死の瞬間まで。死は決定的に不可逆で、もはや新たな体験はなく、思い、感情が変わることはなく、後悔は生じようがない。「死後の視点」から解放への希求が強まる場合もあるかもしれないが、「死後の視点」が死を思い止まらせることもあるだろう。それは自身の後悔だったり、周囲の悲しみや負担だったりするだろう。

また、死を絶望的に希求していても、身体や心(無意識)が抵抗してくる。恐怖や苦痛だったり意識から遠ざけていた感情であったりその取る形は様々だろうが、それ故に死にたいという思いから実際に死を試みることにも、現実に死に至ることにも容易に一直線には進まないだろう。他方で、だからと言って励ましや共感の素振り、叱責などが歯止めになるとは限らず、逆に苦しみや孤立感を強め背中を押してしまうこともある。安易なヒューマニズムや形だけの支援はむしろそこに潜む否定的感情を本人が感じ取ってしまう(本人が過剰に読み取ってしまう場合であれ)。

いずれにせよ、死はあらゆる可能性を決定的、不可逆的に断ってしまうものであり、だからこそ「苦しみからの解放」を約束するものではあるが、その解放を享受する主体=本人はもはやいない。それ故にその約束は本人にとって永遠に実現しない。死を望んだものの死なないことは、苦しみの継続の可能性とともに別の、今は想像できないことを含む可能性に開かれている。それは大きな幸せでなくとも生を実感するささやかな喜びや穏やかさかもしれないし、幸せの大小という物差しも変わり得る。

もちろん、本人が相当の覚悟をもって死を選んだことについて非難はできないかもしれないし、明示的に非難をしてはならないだろう。しかし、第三者がその死を(嘱託殺人、自殺幇助など形はどうあれ)助けることは本人から選択権を奪い、未来への可能性を決定的に閉ざしてしまうことになる。

今回のALS女性の「嘱託」殺人事件が一部では安楽死/尊厳死に結び付けられているが、それは先に書いたように失当であるし、安楽死/尊厳死を第三者的に語り、さらには制度化することは、容易に自己決定(権)の問題から実質的な/事実上の死の強制、命の選別へと転じてしまう。死を考えるほどの苦しみの中にいる人に対して届く言葉や態度、支援は容易なことではなく、安易なあるいは形だけの方策は本人をより追い込み、あるいは無価値感や不能感、屈辱感を味合わせてしまう。三浦春馬さんの死にせよ、ALS女性の「嘱託」殺人事件にせよ、一々の情報で軽々に推測すべきではない。

優生思想

ここ(現在は削除されているブログ記事、(大久保三代「アスペルガーの夫を支え続けた結果」)に書かれていることは大久保三代氏の一方的な見方だろうことを踏まえても、この夫婦がそれぞれに追い込まれ、多くの選択が裏目に出ていたのだろうことが想像できる。裏目というのも回顧的、第三者的に言えること。渦中にある中では最善ではないにせよ最悪を回避するものと見えたのだろう。不用意なことは言えないが、この夫婦の関係は共依存的な、三代氏が夫をコントロールしようとし、夫の側は意識的、無意識的にそれから逃れようとしていたように思える。ただ、そのことと今回の殺人とが、あるいは夫の生きづらさと優生思想とがどう繋がっているのかいないのかは判断できない。

ただ、今回の事件を安楽死/尊厳死や被害者のALSの女性の自己決定の問題にすり替えてはならないのと同様に、容疑者が元議員の夫だとか元厚労官僚だとかいった話に焦点をすり替えてはならない。もちろん、動機解明において職歴や家族関係は重要な要素にはなるだろうが表層的に騒ぐべきことではない。そして、容疑者と大久保三代氏にどのような支援があったのか、また逆にどのような否定的環境やプレッシャーがあったのか。それは事件との関連はもちろん、アスペルガー当事者やその家族が直面する問題との関わりでも慎重に考えられるべきことだろう。

殺されたALS女性も大久保愉一容疑者も「存在を否定されない」環境はあったのだろうか。報道ベースだが女性の発信からはヘルパーらへの負い目が感じられるし、大久保容疑者の妻がブログで同容疑者を評する文章からも否定的な視線が感じられる。この事件には「内なる優生思想」の視点が必要。

この事件は安楽死/尊厳死の問題ではなく優生思想による殺人だと捉えるべきだが、そこで止まらず「内なる優生思想」の視点を入れるべき。「存在を否定されない」とは単に大事にされたり保護されたりすることではない。そこにおいて屈辱感や無価値感、不能感といった自己否定感情が喚起されないこと。優生思想あるいはその意識を孕んだ言動・態度・視線に晒される中で優生思想を内面化し他者にも自らにも向けてしまう。ALS女性が死を望んだのも、大久保容疑者が優生思想を発信し今回の事件に至ったのも、彼らが置かれた環境や扱われ方との関連でも解明されるべきだろう。

この事件を安楽死/尊厳死や自己決定(権)の話にすり替え、結び付けてはならないし、優生思想を抱いた医師の暴走として断罪するのでも足りないし、ましてやアスペルガーの特性と結び付けてもならない。この社会のそこかしこに優生思想が棲み着いていて、存在否定の視線がそこかしこで飛び交っている。


優生思想があからさまに主張されることは多くなくとも、問題は、あからさまに又は黙示的に主張されたり優生思想が関わる事件等が起きたりした時に(条件付きであれ)賛意が表されたり受容されたりすること。そして、もっともらしい主張や何気ない会話、冗談などに無意識に優生思想が反映されていること。尊厳死/安楽死の議論に優生思想が潜んでいることは少なくないし、人気ミュージシャンの「冗談」のような優秀な/劣った遺伝子やその管理みたいな話もそう。しばしば、何気なく、悪意なく存在に序列を付け、可能-不可能(の範囲や程度)、選択肢の寡多を割り振っているし、当事者に内面化させている。

ちょっと話は逸れるが、行動原理や思考様式、趣味嗜好などを評して「◯◯のDNA」という表現がしばしば無邪気に使われる。生物学的には誤用であることはもちろん、継承の態様や理由を曖昧にし、また過去で現在を説明したり逆に現在から照射して過去を説明したりして、思考停止し、させてしまう。そして、「◯◯のDNA」という表現は翻ってDNAあるいは遺伝子のイメージを歪める効果を持つように思える。DNA/遺伝子は数多ありその発現様式も多様なのだが、親(又は祖先)と子の特定の特徴(正であれ負であれ)がDNA/遺伝子に帰され、因果関係として説明される。

組織や集団等の現在について歴史的な説明が丁寧になされてもまとめると「◯◯のDNA」となってしまい、それが説得力を持ってしまうのは危ういことなのではないか。あるいは「蛙の子は蛙」。生物学的には親から別の種の子は生まれないという単純な事実だ。それが種ではなく個体=個人に転用される。子の特徴(職業、思考、行動、趣味など様々)の特定のものが親の特徴と因果関係で直結され、蛙という種の比喩で表現される。これはどちらかと言えば、種がDNA/遺伝子の比喩として用いられていると言えよう。二重に生物学的な誤用なのだが、遺伝決定論かつDNA/遺伝子の優劣評価が忍び込んでいる。

これらを優生思想と結び付けるのは飛躍だろうか?いや、無邪気に遺伝(子)やDNAの比喩を使いまた受容する時に、あるいは(疾病、性格等々の)生物学的な「◯◯の遺伝子の研究」の動機や結果の解釈・提示、またその受け止められ方に、優生思想的なものが潜んでいないだろうか?

上島竜兵さん

自説のために人の死を利用してはならない。 近い人だってなかなか理由はわからないし本人だってそう。 自死を防ぐために心理的剖検などで分け入っていくことは必要だが、その結果をどう利用、公表するかは細心の注意が求められる。

関係者やファンがなぜという思いで推測してしまうことは自然だが、それも軽々に発信すべきものではない。 ましてや、第三者やメディアが勝手に推測を巡らし、ページビューを稼ごうとしたり自説の材料としたりすることは許されない。 それは追悼の思いがあるからといって正当化されるものではない。この記事へのヤフコメでもただただ推測を巡らし自説を披露しているものがならんでいた。はっきり言って醜悪で、そういう反応を引き出してしまうような記事だったり著名人の発信だったりは認識がなさすぎる。

正直言って自殺を考えたことは何度もあるけど、勝手に理由を推測されるんだろうと腹が立ったり、その人に都合よく合理化されてしまうんだろうと腹が立ったり。でも、そうやって気にしたり腹を立てたりする「私」がなくなるのだから先取りして気にする必要はないと考えたり。「自分が死んでも誰も気にしない」という言い方はよく引かれるが、「自分が死んだらこう思われるんじゃないか」という想像に追い込まれることもあるのではないか。「だから死なない」はよく聞かれるが、理解されない、勝手に推測されることへの絶望もあり得るだろう。勝手に推測することの暴力性。

橋本崇載元棋士の元妻殺人未遂容疑

妻や子を支配したい、コントロールしたいと意識的にせよ無意識的せよ望み、DV・虐待の加害者となっていた者が、それが果たせなくなった時、その現実を受け入れられず、自らを「妻子に逃げられた」あるいは「子を連れ去られた」被害者だとみなす。DV・虐待加害者にはしばしば加害性の自覚がなく、妻・子のために叱責している、教え諭している、罰を与えていると思い込んでいる。

あるいは、性別役割分業意識が強かったりケア負担の偏りへの認識がなかったりするために、自分は役割を(しばしば十分すぎるほどに)果たしているのに相手は果たしていないと思い込んでいる。良き夫・父親という自己像を崩壊させないために自分は被害者だと合理化する。

だから、子どもを取り戻すため、復縁するための暴力の行使も正当化される。暴言や暴力が関係修復を困難、不可能にするという認識はないのだろう。旧に復することが正義であり、(元)妻と子は自分に従う義務がある、制裁は甘受すべきであるとすら思っているはずだ。そして、相手も状況もコントロールできないとなった時、究極のコントロールとして妻や子を殺すという選択肢が浮かんでしまう。死んでしまえばもはや抵抗はない。自分の望むままの妻や子のイメージを保持できる、つまり100%コントロール可能になる(ただし、意識下に抑圧した後悔や疚しさなどが様々な形を取って襲ってくることは十分にあり得るのだが)。

あるいは、相手も状況もコントロールできない絶望感から希死念慮を生じ、実際に遂行されてしまうこともある。これは被害者意識の強さというだけでは説明しきれないであろう。コントロールできる自分、良き夫・父親たる自分という自己像、アイデンティティが崩壊した末のことで、もちろん病的な精神状態の結果ではあるが、それは外の原因によるものであるよりも本人の内面に発する原因が大きいのであろう。

そして、自殺を望み、現実に実行することにおいては、自分の死を妻や子が後悔するはず、自責の念を抱くはずという確信があるのではないか。つまり、妻や子の心を自分の死を通じて、また自分が死してもなおコントロールできるという強い確信があるのではないか。自殺を現に実行するには死の恐怖を上回る動因が必要になるが、この強い確信がその動因を構成することがあるのではないだろうか。

つまり、妻や子に対する殺害企図であれ、自殺企図であれ、コントロール願望、コントロール幻想が膨らんだ末のことであると言えるだろうし、DVや虐待の延長線上にある「加害者」としての帰結だと考えられる。

橋本元棋士の場合は元妻への誹謗中傷、そして殺人未遂という形で行動化したが、自殺企図という形を取ることもあり得たのだろう。

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