安藤優子『自民党の女性認識――「イエ中心主義」の政治思考』

本書前半の自民党の女性認識の形成過程の鍵が大平元総理=香山健一氏らブレーンの「日本型福祉社会」。「日本型福祉社会」は鈴木政権を挟んで中曽根政権にそのまま引き継がれ、新自由主義政策と対になり、3号被保険者などいわゆる主婦優遇政策が進んだ。妥協を余儀なくされ「小さく生まれた」均等法も、派遣法もこの時期だし、日本社会論、日本型〇〇、日本的〇〇の氾濫を思い出してもいい。

安藤氏が焦点を当てる「日本型福祉社会」は、私も何度も言及してきたが、未だ制度・政策にも議論や意識にも大きく影響していて保守派の主張の基盤でもある。安藤氏の記述を辿っていると、統一教会と政治の問題や杉田水脈政務官登用の件ともろに重なってくるし、共同親権の問題ともつながる。

安藤氏が大平元総理にページを割いたことで連想したのが岸田総理。総理は大平氏を範とし、そのことは総裁~総理就任の頃には文化重視などの面に光を当てて肯定的に論じられていた。しかし、大平氏の「日本型福祉社会」と家族・家庭像に光を当てると、岸田氏が保守色をあからさまにしない分危険だ。岸田総理は、先に杉田政務官に関わり触れた、ネオリベ的な多様性、女性活躍の捉え方に馴染んでいるに止まらないのかもしれない。そう言えば、総裁選の時に物議を醸した食卓での写真、あれは象徴的だったのかもしれない。

本書を読んで改めて思うのは、議員増やせはエリート女性の話だとか、女性だったら誰でもいい訳ではないとかは安易な抽象論であるということ。確かに現状の議員へのルートやジェンダー意識ではエリートや性別役割分業に肯定的な女性の方が議員になりやすい。でも、そもそも議員へのルートが男性に比べて限られていてかつそれぞれのルートが細い現状で掛け声だけで女性議員が増えるのには限界があり、問題ある女性議員がわっと増えるかの想定に説得力がある訳ではない。

女性候補を掘り起こす、供給源を広げるには政治の側のジェンダー意識、女性に係る固定観念が変わらなければならず、日常の政治活動、選挙運動、議員活動のあり方が見直されなければならない。託児所を作るとか開会日・時間を柔軟にする、リモートを活用する等も条件整備にはなるが抜本策ではない。

フォーマルな会議以外のインフォーマルな場ややり取りで重要なことが決まったり地ならしがされたりする。その比重が高い現状では議員活動の時間は無制限で生活の方を合わせるしかない。選挙に勝つためには日常の政治活動が大事だが、それも無制限で生活を侵食する。地方議会、特に基礎自治体レベルでは理念・政策よりも人のつながりがモノをいう現状では、付き合いが悪い、顔を出さないと言われてしまうとマイナスになる。家事・育児負担は考慮されないし、かと言ってそれを夫に任せたりしているとそれはそれで悪く言われる。それでは議員の成り手は限られる。

地方議員は特に小さい自治体ほど議員報酬も経費の支給も少ないので資産家や兼業、あるいは専業主婦でないと生活が難しくなるし、議員に代わって動くスタッフも雇えない。無償で動く組織やつながりを持っている女性候補・議員は元々そういう立場・境遇にありそれを築く労力を必要としなかった。

与野党問わず地方議員は国会議員の主要な供給源だから女性地方議員の少なさは女性国会議員の少なさに直結する。安藤が分析したように地方議員から国会議員というルートに乗る女性は特に自民党では世襲(的)の場合が圧倒的で、女性が地方議員になるハードルの高さが国会議員へのハードルになる。地方議員以外のルートでは政治や党との近さが男女問わずモノを言う。あるいは著名であったり地元の名士だったり名家出身だったりという知名度が必要となる。男女問わず世襲(的)だったり秘書など身内的に認知されていたりする候補が有利なのは一から築く必要がないから。

世襲(的)でなく候補としてリクルートされる又は公募等で採用されるには前職の場での実績が必要になるが、言うまでもなくその条件は未だ男性に圧倒的有利だ。それは職場等の側の仕組みや意識にも当然要因はあるし、性別役割分業意識だったりそれを否定しつつも男性の家事・育児「参加」に止まる社会・家庭の側の状況も大きい。繰り返すが、国会議員になってもその制約は大きく、元々バリキャリか親を含む家族の支えや経済力がないと厳しい。

結局、女性議員を増やすということはその供給源を大きくする、裾野を広げるということであり、そのためには政治の側も社会の側も仕組みと意識が変わらなければ頭打ちになるだけだ。その意味で女性国会議員の数は単にエリート女性の話なのではなく、社会の平等度の代理変数でもある。もちろん、政治の側が小手先で女性議員を増やそうとすれば現状の意識でかつ目の届く範囲で探すから自ずと偏ってしまう。一般的な女性の現状や感覚と遊離した女性議員やミソジニーを内面化した女性議員が目立ってしまうのもそのためだ。

一方で、地道に女性に関わる課題に取り組む議員はなかなか目立たないし、「もっと大きな課題」「個別ではなく一般的な課題」に取り組めという声が政治の内部からも社会の側からも向けられる。その「小さな」「個別の」課題が政治・経済・社会の構造と意識から切り離され周縁化されてしまう。まさにそうであるからこそその課題が不可視化され、放置され、十分に取り組まれない。構造と意識の産物でありその歪みが集中的に現れているところの課題が、にも関わらず無関係のものとされるから構造と意識は安泰である。例えば性暴力やDVがそうだ。限られた被害者の問題とされてしまう。

議員の女性比率の問題を単にジェンダー平等の個別課題の一つであるかのように切り出して考えると、女性一般から隔絶したエリート女性の問題のように捉えられてしまう。社会や政治の現状を前提にすれば確かに「女性なら誰でもいい訳ではない」という懸念に故はあるが、それは危うい。「女性なら誰でもいい訳ではない」は議員に限らず管理職・経営者についても言われるが、男性がゲタを履いている現状を不問、不可視にし男性優位・有利な体制を維持するもの。女性差別をなくしたい側がこれを言うことは結果的に、その体制の問題と切り離すことになり、その維持に加担してしまう。

安藤優子が女性議員の少なさと自民党の女性認識を分析するに当たってまず日本型福祉社会論に焦点を当てて丁寧に辿り、その視点を分析を通して貫徹していることの意味、意義はここにある。書名である『自民党の女性認識』は一見限定された領域に見えるが、決してそうではない。

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