森岡正博、蔵田伸雄編『人生の意味の哲学入門』

森岡正博、蔵田伸雄編『人生の意味の哲学入門』。「人生の意味」「意味」の意味がまず容易に特定、共有できるものではなく、そこに様々な角度からアプローチし、一つの明確な答えに決めることはせず読者に問いとして投げ返すというのがこの本であり、まさに「人生の意味」は問いであって答えではない。

宇宙、地球、生物、人類…は「いかに」生じたかは解明し得ても、「なぜ」=何の目的で生じたかは解明し得ないし、その目的、意味を外的に想像し付与することはできても、内在的には無-目的、無-意味であるというか言いようがない。「私」が生まれた目的、意味も同じだ。

「私」は生まれるべくして生まれたのであり、「もし」別の誰かとして生まれていたらもはや「この私」ではなく、その人物の「私」だ。そして、「いかに」のメカニズムはわかっても、なぜ「この私」が生まれたのかの答えは「両親が望んだから」のような選択的な物語などでしか与えられ得ない。

そうは言っても、人は生まれた意味、生きる意味、人生の意味を問わざるを得ないし、その問いに取りつかれ苦しめられ、それによって命を失いすらする。同時に、その「意味」は時の経過とともに、新たな体験とともに更新され、変容する。常にそれは問うた時に見出された意味である。

また、人生の意味は過去に向かって、しかも短いスパンから、5年10年の幅、あるいは生まれた時からといった長いスパンで見出され得るものであるし、問う時の構え、状況、心理状態などに大きく左右される。将来に向かっても同様で、短期的な達成から一生かけた達成など、意味を求めるスパンは変わる。

結局、「この私」の人生の意味というものは、この観点からは有意味/無意味、このスパンでは有意味/無意味といった答えが無数にあって、それは他人が誰かの人生の意味を評価する場合でも同じだ。例えば、ガンジーの人生に意味があったと多くの人は言うだろうが、彼の妻子にとっては抑圧であったりする。

人生の意味を問う「この私」は必ず死ぬ。問う主体が、問いそのものが消滅する。死後の生から意味を付与するとしても、それをしているのは今ここにいる「私」だ。第三者の評価もいつまでも確定しないし更新されるし、ほとんどの人は存在そのものが忘れられる。知る人も人類もいずれ消滅する。

人生の意味は長年の達成で感じられるかもしれないし、将来に向かって年月をかけて達成しようとする意志、行いによって感じられるかもしれないし、特定の出来事や感情で感じられるかもしれないし、他人から伝えられた感謝等の言葉やその表情、行動で感じられるかもしれない。

そうやって感じられた人生の意味が持続したりさらに意味を感じる基礎となったりすることもあれば、無に帰すこともさらには負の意味に転じることもある。結局は、強弱様々に生きる意味を問い、感じ、それを保ったり捨てたり更新したりだし、その意味の量や質で一義的に決まるものでもない。

そして、死ぬ直前に「いい人生だった」を振り返られるかで人生の意味が決まる訳でもないし、意味を見出した時、逆に無意味だと落ち込んだ時に決まる訳でもない。人生の意味は「いつ」「どのように」問い、感じるかであるし、そのいずれかの瞬間を特権視するかも「いつ」「どのように」と相関する。

ただそうは言っても、苦しいことは少ない方がいいし、苦しかったことでも後に意味を見出せるほうがいいし、一つの体験の意味を固定化せずに別様に捉え返せるような体験の豊富さがあった方がいいとは一般的には言えるだろう。無理やり意味を見出すよりも自然に感得できる方が望ましかろう。

人生の意味について哲学として価値観として統一的な基準は立てられない、立てるべきでないが、一方で制度、政策、慣習の領域の話にはなってくると言える。人生の意味、生きる意味を絶望的に問い、命を失いすらする状況に社会の側から追い込まないこと、人生の意味を多様に問い得る環境を作ること。

その意味で、人生の意味の哲学は分析哲学の問題以上に臨床哲学(鷲田清一)の問題であるという気がするし、貧困や社会的排除、差別、暴力に関する議論や政策と関わってくるものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?