代理出産は一刀両断の議論に馴染まない

私は基本的には代理出産合法化には反対だし、少なくとも性急に議員立法で進める問題ではないと考えるが、このようにAV新法やその一方的評価と結び付けて論じるのはいかがかと思う。ここのところは、一部のフェミニストらがLGBTQ+の権利擁護が代理出産合法化につながる、ミソジニーだと唱えており首をかしげる。

誰がどのように代理母になるのかは重要論点だが、第三者の場合と親族や友人等の場合とで共通する論点と異なる論点とがあり搾取だけでまとめられない。加えて、卵子採取の負担の問題、子を持つことや「血のつながった」子を持つことへのプレッシャーの問題など生殖医療全般の論点も曖昧にできない。

代理出産を含む生殖医療は不妊カップルや女性の「希望」が前面に出されて論じられがちだし、これに対する宗教的な反対論も抑圧的だし、素朴に「自然」を持ち出すのも実は説得力はない。問題は、技術的に可能な領域が拡大することで希望あるいは欲望も掘り起こされ、逆説的に人の資源化も進むことだ。

当事者の希望を叶えると言えば人間的、人道的に聞こえるが、生殖医療は医療界や医薬産業等の利益のためでもあるし、生殖・出産させたい国家のためでもある。また、ドナーの選別や遺伝子技術の利用等を通じて優生思想が紛れ込む問題もある。

さらに言えば、自然生殖の場合でも子を作る動機や生まれてくる子への期待はその子との関係について緊張の源泉となり得るが、より高度な生殖技術を利用してより意思を持って子を作ることで、子が目的に奉仕する存在になるリスクは増すかもしれない。

自然生殖の場合、妊娠確率を高め得る工夫はあるし、いつ妊娠を目指すかという計画性も入るとは言え、子ができるかは偶然性に委ねられる。生殖医療も成功率は高くなく実は偶然性に左右されるのだが、目標が設定され、計画性と操作性が前に出てくる。成功率・精度を上げていくならより制御性が高まる。

医療自体、知識増大と技術進歩により、自然か人為かで線を引くことはとうの昔に不可能になっているのだが、生殖医療では(移植医療等もそうだが)、他人の精子・卵子又は身体を利用する場合にその正当性や権利関係も含んだ問題になるし、子を持ちたい当事者の身体への侵襲、生殖資源化の問題もある。

生殖医療は子を持ちたい当事者の希望(あるいは欲望)やQOLのみに閉じた問題ではないし、生まれてくる子との関係の問題も含まれる。後者は法的な親子関係の問題以上に、子が親にとってどのような存在なのかということが先に述べたようにより大きく問題化し得る。

もちろん、匿名であれ顕名であれ、精子・卵子ドナーや代理母の法的地位・権利の問題、心情的な問題なども重大であるし、子の「出自を知る権利」の問題もある。いずれも法的に整理して割り切れるとは限らない問題であるし、生殖医療によって生み出される問題である。

ということで、生殖医療を否定することはできないのだが、自然ではないと言うことに説得力はない一方で、では人間的なのかと問うと肯定し切れない問題がいろいろとある。当事者に「諦めろ」と言うことは残酷である一方で、その「希望」で絶対的に正当化できるものでもない。

生殖医療あるいはその個別技術に対する慎重さは、「希望」するカップルにとっては確かに暴力的ですらあるのかもしれない。しかし、その「希望」は必ずしも内発的なものばかりでなくプレッシャーや強迫観念を背景に持つものである場合も少なくない。

その意味でも、当事者の「希望」を情緒的な梃子にして進めることはその当事者たちにとっても将来に向かっても決して肯定的なことばかりだとは言えない。

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