前之園和喜『性暴力をめぐる語りは何をもたらすのか』

前之園和喜『性暴力をめぐる語りは何をもたらすのか』。問題意識も手法も興味深いのだが、加害者他者化の有無と被害者非難の有無をクロスさせた4象限で分析することの限界も感じた。本体である報道分析では出典記事は明記されるのだが発言者が明示されないため、肝心の立場性と文脈が分析できない。

特に顕著に出たのが、1995年の沖縄米兵少女レイプ事件。この事件の語りには沖縄の米軍基地、米軍人・軍属の犯罪・性犯罪、日米地位協定という問題の文脈があるので、性暴力の側からのみ分析して、以上の文脈に特殊化されたかのように描くと偏ってしまうし、発言者の立場と文脈は欠かせない要素。発言者が一般市民なのか、政治家や有識者なのか、運動関係者なのか・何の運動なのか、保守か革新か等々で語りの解釈は大きく変わるし、ほとんどが在沖米軍人・軍属による犯罪の歴史、その中でも性犯罪の歴史、常に障害となってきた日米地位協定という文脈において語りがなされている。

一方で、発言者の属性や文脈を消去して語りを並べると、気持ち悪いほどナショナリズムが発露しているように感じられるのは確かだし、加害者の他者化も極端ではあって、性暴力問題に関心がない者によって事件が「利用」された面もないとは言えず。それ故に表現が強くなる面も否定はできない。ただこの点は微妙な点を含んでいて、保守-革新を超えて、また性暴力問題への関心の有無を超えて訴求するためにあえて日本(人)、米国(人)/米軍(人)を戦略的に強調する者もいる。いずれにせよ、語りの分析ということにおいて以上の複雑性を捨象してしまうとミスリーディングになってしまう。

同様に、上の事件を含め子どもが被害者となった性犯罪事件報道の分析では、子どもに対する性暴力・性犯罪という文脈が、語りが押し込められる先として扱われているように見える。ここも性暴力一般の視点からの分析に限界がある。女児のジェンダーが「消去」されたとするのも一面的だと思う。女児のジェンダーが消去されたとされるのは前之園も注意喚起しているが沖縄の事件以外の殺人事件だった。ジェンダーが消去されたように見えるのは、殺害が前景化し性暴力が後景化した語りに典型的に見られるようにも思われる。虐待事件でも性的虐待があっても後景化しやすいことも想起したい。

加害者が他者化される効果として、家族や身近な者からの性的虐待こそが多い事実が没却、隠蔽されてしまうのだが、それは軽く言及されるに止まるのも分析手法の限界かもしれない。被害者非難や加害者擁護の発言でも誰の発言か、その立場性、そして語りの文脈が重要な情報になる。その語りが引かれた記事を誰が、どのようなスタンス、トーンで書いているのかも大事だ。本書では発言者名や属性が一部を除いて明らかでないし、媒体名と日付のみで執筆者名とタイトルも示していない。

また、基本的に前之園の分析は記事毎、語り毎に分析し4象限に配置しているので、量的な分布、静的な構造は見えやすいのだが、事件を巡ってどのように議論が展開したかという動的な構図は見えにくい。また、事件がどういう文脈に置かれたのかは見えても、どういう文脈が動員されたのかは見えにくい。10の性暴力事件について4千件近くの記事を集め、事件ごとに語りを加害者の他者化の有無と被害者非難の有無でクロスさせた4象限に分類するというアプローチは面白いし可能性は感じられる。しかし、4分類が目的化したきらいもあり分析がその4分類に必要以上に縛られてしまった感がある。

私などは、引用された語りが誰のもので、その前後の語りや記述がどうであるのか、それを含め記事全体がどのようなものであるのか(タイトルや執筆者含め)を深掘りしたくなった。また、どのタイプの語りが優勢かはあくまで量的に示されているので、個々の語りの代表性や影響力が判断できない。前之園は4象限に分類した語りと「ジェンダー規範」を先行研究を引きつつ結び付けるが、以上述べた通り、それぞれの語りにおいてどのような文脈や論理が動員されているのかを、切り出した語りそれ自体だけでなくその「外」の語りや記述、発言者の立場性等々に照らして解釈、分析する必要がある。それによって、それぞれの語りがどのようにジェンダー規範を参照・反復し又はずらして事件や被害者・加害者の行為を意味付けているか、それを通じてジェンダー規範を再生産し又は無効化しているかがより明らかになるのではないか。面白いのだが閣下搔痒感の強い本だった。

性暴力の語りにおいてジェンダー規範が現れる仕方は複雑になり得る。特に被害者と加害者の片方又は双方に特定の立場が結び付く場合、一方を非難し他方を擁護する「ために」ジェンダー規範やステレオタイプが動員されるし、ハニートラップ言説のように悪意の存在が別の文脈をも動員して主張される。それが典型的に現れたのが山口敬之氏による伊藤詩織さんレイプ事件で、ここではジェンダー規範・ステレオタイプでストレートに解釈されるだけでなく、ハニートラップ説を補強するためにジェンダー規範・ステレオタイプが動員された。レイプを裏付ける個々の事実は選択的に無視、歪曲された。このように、ジェンダー規範やステレオタイプは事件を不自然なものであると描き性暴力の不在を補強するためにも動員される。その時性暴力被害の実際(例えばフリーズなど)は無視されるし、加害者の正当化・合理化のパターンも無視されてその言い分が字義通りに受け取られ信頼される。

性暴力被害者や支援者に対する攻撃、例えばフラワーデモに対するものなどでは、性的表現が関わる問題でのフェミニストに対する攻撃でもそうだが、一方で悪意や支配欲を持った女性集団が戯画的に立ち上げられ、攻撃に晒される被害者たる男性(あるいはその中の例えばオタク)の像が立ち上げられる。この時に男性の「わたしたち」が立ち上がっていることは前之園の分析の通りなのだが、ジェンダー規範・ステレオタイプ、そこに意識的・無意識的に働いているミソジニーや男性の特権維持動機が語りにどう現れ、かつ語りを通して再生産されているか、その経路はより丁寧に分析される必要がある。

前之園も認めている通り分析対象の事件に偏りがあったことの限界も確かにある。取り上げられたのは大人と子どもなど圧倒的な力の差がある事件だったり、ブランド力のある大学生による集団レイプ事件だったりした。それでも発言者の立場性や文脈などを分析すればより豊かなものになったはずだ

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