牧野雅子『痴漢とはなにか』

牧野雅子『痴漢とはなにか』。雑誌・新聞記事と統計を丹念に検証した研究で、類書に出会ったことはない。分析の視点、方法はフェミニズムや社会学で馴染みのあるものだが痴漢という行為/現象/言説に真正面から迫ったものは残念ながら思い付けない。そして、娯楽としての痴漢から痴漢冤罪論にシフトしていった記事を丁寧に読み解くことは、その抜粋を読む男にも吐き気を催させるだけに相当な苦痛だっただろうと思いながら読んだ、牧野さんは「おわりに」で「辛い『作業』だった」と吐露されていた。

痴漢も痴漢冤罪も男の幻想と合理化による自己増殖的言説と感じる。《男は性欲があるから仕方がない/女も望んでいる》というストーリーが根底にありつつ《男=受動(巻き込まれる)/女=能動(仕掛ける)》とねじれているのが冤罪論だが、受動的な性的対象は黙って従えというミソジニーには違いない。

最近の傾向として気になるのが、痴漢加害者を誤認したこと(や被害者の体感として痴漢行為と誤認した場合)による冤罪から女性の策略としての冤罪に強調点がよりシフトしていること(前者でも冤罪の訴えにより痴漢加害者や痴漢行為が不可視化される傾向にあるが)。痴漢冤罪論(冤罪があることは否定しないが、痴漢冤罪を殊更に強調し糾弾する言説を指して使う)は、力を持った女に男の地位が脅かされるという被害妄想(男の地位と力は不当に下駄を履いたものに過ぎなかったのだが)と軌を一にしているように思える。牧野さんの『刑事司法とジェンダー』と同様に強調されるべきは性暴力事件の冤罪の要因として男の性欲とその刺激あるいは(背景としての)その不満足(欲求不満)に動機を求める司法機関のストーリー構築/誘導があること。それが「自称被害者」やその主張を「鵜呑みにした」警察等の責任に変換される。

以前、痴漢含む性暴力事件の弁護側の視点で弁護士や学者が論じる論文をまとめて読んだことがある、被害者女性への偏見/猜疑と容疑者/被告男性への無条件の信用、その根底にあるジェンダーバイアス/ミソジニーに吐き気がした。往々にして性犯罪裁判は、検察と弁護側がジェンダーバイアスに基づくストーリー構築の巧拙を争い、ジェンダーバイアスをまとった裁判官がそれを判断するという歪んだ構図になる。痴漢冤罪論にせよ、有名人の性暴力事件にせよ、メディアがそしてネットを通じて一般人が加わって煽り、消費している。

痴漢にせよセクハラにせよ、いつ男が加害者に仕立てあげられるかわからないという恐怖感と潜在的な「加害者」女性への嫌悪感を共有し増幅する形で話が進む。そこに痴漢・セクハラ被害/被害者は存在せず、また男の性欲や性差別意識あるいは(特定/不特定の)女性への「好意」は不問の前提になっている。男が『痴漢とはなにか』を読んで(良い意味での)痛みを感じて省みることができるのか、(悪い意味での)痛みからますます怒りを募らすのか。少しでも被害妄想から解き放たれる(一歩を踏み出す)男性が増えて欲しいし、メディア関係者には当事者意識を持って読んで欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?