「生産性」言説と優生思想、そして「自然」(2018/09/21)

杉田水脈議員の国会質問は差別発言ばかりで怒りを覚えていたが、衆院選で自民が擁立し国政復帰したことにはクラクラした。『新潮45』寄稿問題も呆れるばかりだが、今回同誌が批判への反論特集を組んだと知り一部引用を読んで改めて怒りが湧いた。国会で、言論空間で淘汰されない現状に暗憺たる思いだ。杉田論文そのものは読んでいないので論評しないが、同論文でも批判でも「生産性」がキーワードとなっていることについて少し考えたい。

杉田氏は生産性=再生産/生殖として用いているが、これは恐らく後者の主張に説得力を持たせるレトリックとして生産性を持ち出したという軽薄な面がありそうだ。

杉田批判のパターンとして生産性の射程を広げるものが目立つ。しかし、再生産/生殖における貢献/有用性で人の価値を測ることに対して、生産性を広義に取っても経済や社会における有用性で測ることは同一平面上にある。たとえ個人レベルの影響にまで拡張しても他人にとっての有用性である。

つまり、有用性で人の価値を測るとは道具的/手段的価値であり、目的として扱えというカント的格率を持ち出すまでもなく、人の価値を序列付ける、条件付きの存在肯定でしかない。これは人権原理の無条件性に反する。差別や権力偏在を生産性で糊塗して正当化するのは人権の基盤を掘り崩すものだ。だから、杉田氏への批判は生産性の定義ではなく、生産性の導入そのものについてなされなければならない。

次に、杉田氏の狭義のあるいは生産性定義、すなわち再生産/生殖の視点が根本的に批判されなければならない。杉田氏などの論者のLGBTやフェミニズムへの批判、不快感表明の鍵に生殖がある。生殖重視は国家/社会優位の視点からなされる。あるいはそれが共同体や家族のレベルにも持ち込まれる。もちろんそれは、優生思想と表裏一体であるが、ここで広義の生産性とも結び付く。

さて、彼らは言うだろう、生殖を重視するのは当然だ、それが自然である、と。実はここに「べき」が潜んでいる。隠された「べき」、生殖を重視するのは自然である「べき」というところに自然の「構築」がある。人間は自然をすら定義する社会、文化を持つ。もはや、人間において「ありのままの自然」はない、認識・表象できない。人間に適用される自然法則は常に既に汚染されているのだ。

もちろん人間にはその存立基盤たる自然を保護する義務があるが、その保護行為が既に人為である。否その前提たる自然の認識自体が制約され誤りを含み得るし、原理的にその正誤は確定できない。常に検証され更新されなければならないものなのだ。

だから、人には自然を破壊する行為を回避する責任はあるが、逆に、自然法則を人間社会に、個人に適用することは常に恣意を孕むものであって謙抑的でなければならない。自然法則に忠実な生活は原始社会ですら不可能だ。つまり、計らいから自由でない限りは。それでも、と杉田氏を擁護する論者は言うだろう、生殖がなければ種は存続できない、と(優生思想に反対する者も限定的に同意するかもしれない)。

しかし、自然とは何か、肉体が自然なのか。性自認も性的指向も身体と精神の一致/不一致/ズレの程度の問題であり二分法ではなくグラデーションだ。そして、身体と精神と言う時、身体が先立つように捉えられるがそうではない。精神の方が一定の図式に従って身体を区別、区分するのだ。もちろん、その特権的な区別が性別であり性的指向だ。数多くある身体的特徴、その背後にある仕組みから特に性別と性的指向が取り出されるのは生殖管理のためだ。

国であれ部族であれ家族であれ権力者にとってその繁栄のために道具/手段たる人の再生産が必要になる。また、自らの永遠の生が叶わぬのであればその延長たる存在に託すことになるが、そこで「発見」されたのが血なのだろう。血縁の重視は遺伝子レベルの本能とは無関係だ。遺伝子が発見され言説化されたことで血への拘りが生まれた。少し逸れるが、家族を無条件に善きものとする「信仰」もその延長線上にある。生命の原因となった親には養育の義務があるが(但し後述)、子の側から見れば育つ権利が充足されることが最優先だ。

親の側から見ても無責任な養育放棄、虐待が許されないことは当然だが、一方的な犠牲を強いられる義務はない。ともに個人たる親と子の権利が両立できる支援や仕組みが必要なことは自然とは別の水準の社会的な要求だ。

話を戻すと、精神が身体を認識、表象する人間にとって、選択性のない性自認や性的指向を身体に合わせることは決して「自然」とは言えないし、血縁とは別のつながりを持つことは「反自然」ではない。社会、文化が既に人為である中で、性別や性的指向を特権視することも恣意である。

少子化が問題とされ国難とすら言われるが、人口規模に自然の基準はない。というよりも、遥か昔から自然水準からすれば過剰だろう。つまり、人口規模はつとめて社会的、経済的な概念なのであり、そうであるならば人権という根本原理を曲げてまで少子化対策をすべきではないのだ。

人口管理・再生産を優先させる法制度・政策、価値観には全く自明性はない。少子化による暗い未来を喧伝するのではなく、人権を基盤として人々の選択に委ねることで拓かれる未来に賭けることこそ、楽観に過ぎると言われようが、適正規模と尊厳ある生活につながるのではないだろうか。

同様に優先されるべきは、自然環境に過大な負荷をかけ破壊してきた文明の転換であり、人為の限界を弁えつつ行動を修正する試行錯誤を続けることだ。平たく言えば、個人を大事にし自然を大事にする、人と人、人と自然のつながりを抑圧的でなく組み換え可能な仕方で紡いでいくこと、そう展望したい。

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