AI時代に間主観性は成り立つか?

発話において意味/意図は一応は決められるが、多義性や他解釈可能性は閉じない。話し手の言葉の意図と受け手の言葉の理解には程度はどうあれ必然的にズレが生じる。話し手の意図とその言葉との間にも、その言葉と話し手のその言葉の理解との間にもズレが生じ得る。デジタル、AIにおいて言葉の意味は統計的に確定される。いわば関係的に定義が確定される。ここで間主観性を導入すると、人間とAIの間に間主観性は成り立つかと問える。

AIは発せられた言葉の意味をその発話をデータとして扱い統計的に確定する。人はAIの発した言葉の意味をAIの意図を擬制的に推測して確定するだろう。AIの産出する、確定する意味はデータたる人の発話に依存するとは言え、統計的に処理され限定されていく。

人と人の間での間主観的な意味の産出あるいはそこで生じるズレからの新たな意味の産出に対して、人とAIの間ではその往還が進むに連れて主導権、定義権がAIに移っていく。人がAIとやり取りする中でいわばフィルターで濾されていく。AIが産出、確定する意味に人が拘束され、準拠し、さらには従属することにならないか。

少し転じると、対面とオンラインでは情報量が異なる。バーチャルでは意識的にも無意識的にも受け取る情報量は縮減されざるを得ない。バーチャルで付加される情報があるにせよ。我々は言葉のみならず感覚で受け取った膨大な情報から意識的に、遥かに無意識的に取捨選択して(主体性と受動性の程度問題はあるが)、それに基づいて判断し行動決定している。その判断と行動決定も多くは無意識的、無自覚的に行われている。意識的にまたは無意識的に因果関係を特定し、あるいは要素間で取捨選択や重み付けをし、判断、行動決定している。

研究でのモデル構築等でも、政治や企業等での分析、意思決定においてもそうだ。また、因果関係や要素の重み付けの言説が印象を誘導して再帰的に強化され、定着することもある。だから、平板化、単純化はデジタル、AIに固有なものではない。しかし、デジタル技術、AIが広く実装されますます人と人の間、人と環境の間に入り込み、認識やコミュニケーションを介在することで、平板化、単純化は異なった次元に入るだろう。

AIで解析され提示される「私」は私なのだろうか?確かに私の自覚している私の特徴は捉えているだろうし、私の知らない「私」の特徴をも示しているだろう。それは意外なものかもしれないし納得のいくものかもしれない。でもそれはあくまでも統計的、確率的に再構成された「私」であって私そのものではない。人が実際に見、接して得た私の像とAIが提示する私の像のどちらがより正確か、その比較をすることは不可能なものだ。

そもそも、人が描く私の人物像にしても、私自身が捉える私の人物像にしてもどの時点、どんな状況かなどによって変化するし、まさにその記述することからも再帰的に構成される。その意味でAIの構成する「私」の人物像は現実に存在しない時間や状況の下で構成されたものだ。しかし、そのような意味での「現実感」は必要ないのかもしれない。問題はその「私」を私が受け入れ、身に着け、その「私」に導かれて振る舞うかどうかだから。そのために「私」に現実感があればいい。つまり、虚構の/仮想の現実の創造だ。

しかし、そうなってくると偶然性は縮減し操作的なものになり、演出的な偶然性に取って代われるかもしれない。言葉の限定性、排他性も強化されるかもしれない。複雑で気づかれない形で、予測可能性、操作可能性、制御可能性が強化され、私たちの認識や行動が規定され誘導され得るし、その過程にどんな価値判断が埋め込まれてしまうか。

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