ケアと身体性

たまたま図書館で借り出せた順番なのだが、中真生『生殖する人間の哲学』、村上靖彦『ケアとは何か』と読み継いだ。

ケアの身体性、ケアの身体化された次元というものがあるしそれは本質的。ケアされる人の身体の動き、反応、感触にケアする人の身体も相即して反応し動く。

その身体の動き、反応の後に感情や言語化が伴うこともあれば、そのまま互いの身体の動き、反応の連鎖で進んでいくこともある。個々の場面だけでなく、家事、育児、介護といったプロセスのひとまとまりでも、まず身体に馴染んでいて滑らかに動き適当な体勢ができている。

それを手順ややり方を言葉で説明しろと言われると困ることがあるし、言葉で説明することも意識的に実演して見せることも難しいことは珍しくない。あるいは、子どもの様子なども身体の動き、反応、感触であったり身体性という意味での表情や声の調子などでこちらも身体的に感じ取る水準がある。

言語化すれば「何か様子がおかしい」「何かいつもと違う」としか表現できないことが、実際に早期に予兆を捉えていることはよくあるだろう。「親のカン」などと言われることもあるが、意識化、言語化できない身体性の水準でのサインの授受ということは多いはずだ。

こうした言語化が難しい、あるいは意識化、言語化されるまでもなく遂行されている水準のケアはしばしば無視されるか過小評価される。それは、さっき書いた共同親権問題でも如実に現れる。基本的に協議、交渉、審判などは言語の水準で行われるものであり身体化されたケアや身体性に目が向けられない。

夫婦間でケア負担に偏りがある場合でも、夫側は相応にやっていると「言葉で」主張し、妻側の「十分に言語化できない」ケア負担は過小評価されてしまう。妻から夫へケアがなされ、夫からはほとんどない場合でも、妻のするケアは当然視され意識化されない一方で、夫からのものは声高に主張される。

妻がする子どものケアは身体化された水準のものが多く、ケアとして改めて言語化すると多くのことが零れ落ちる。逆に、妻による身体化された円滑な子どものケアを寸断、攪乱させるようになされる、夫による子どものケアはむしろ身体化されないが故に言語化可能なエピソードとして過大に主張されやすい。

父親が子どもとの間に十分に身体化されたケアの関係を持っていないと、上の通り言葉での主張に頼ることになるし、子どもの言葉の断片や言語的に表現できる行動、態度などが強調されることになる。それが意味するところを捉えられないと、それらの主張に不相当に重きを置いた判断がされてしまう。

若年被害女性等支援の場合も、利用者や支援対象の様子を身体性の水準で感じ取りながら行われる(オンラインで文字で行われる場合でも支援者の側には顔の見えない相手の身体性が何らかの形で立ち上がっているはずだ)。その手順や留意事項を言葉で説明すると簡単なことに見え得るがそうではない。

例えば相手を見るポイントを言葉で説明すると下らないことに見えてしまったりもするが、実際の現場ではその説明では掬い取れない情報量があり、身体的、感覚的にも受け取られ判断を形成しているし、感受性を持ち機微に敏感になることが必要になる。それは相手にかける言葉や仕草などにも当然及ぶ。

もちろん、相性のレベルを含めすれ違いや誤解も起こり得る。だから、事例、経験の蓄積からスタッフ個人のレベルでも身体化された知識、スキルとして獲得されていくし、一定の型、パターンのような形で共有もされていく(インフォーマルな会話からマニュアル、事例集、研修などまで)。

支援の現場、支援者と被支援者の間の関係や作用などを知らないと、言語化された情報でのみ、映像があったとしても表面的なことのみを捉えて、その文字や表面の背後に広がる領域への想像力を欠いたまま軽々に評価を下してしまうことになる。まさに女性支援団体叩きで始終みられることだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?