世界を統(す)べていた日本の天皇
はじめに
「竹内文書(たけのうちもんじょ)」、この言葉を聞いたことがあるだろうか。
竹内さんが書いた文書という単純なものではない。
三千億年前からの歴史が記されている書物のことです。
天津教(あまつきょう)を開いた竹内巨麿(たけのうちきよまろ)が代々伝わる文書として、昭和十年(1935年)に公開した有史以前のことから、全文神代文字で記された書物のことです。
まずは、竹内文書と竹内巨麿という人物についてお話する必要がありますね。
1、竹内文書
神代文字で書かれた竹内文書を、武烈天皇の勅命により、竹内宿禰(たけのうちのすくね)の孫 平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じりに訳したとする写本、モーゼの十戒石などの石、鉄剣などの総称、これを竹内文書と言います。
平群真鳥の子孫であるという竹内家に養子に入ったのが竹内巨麿。
巨麿は皇祖皇太神宮天津教を興し、同神宮の神職であり、竹内文書を天津教の聖典としていました。
しかし、大東亜戦争中に「天津教弾圧事件(詐欺罪・不敬罪など)」により、原本など一式を裁判の証拠資料として提出していたのですが、残念ながら米軍による東京大空襲でほとんどを焼失してしまったといいます。。
ただ、地下の倉庫に保管されていたというから、実は焼失などしておらず、どこぞに今でも門外不出として保管されているのではないかと、個人的には思っています。
2、竹内巨麿と皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)
竹内巨麿は、富山県上新川郡新保村に生まれ、幼少期に母が暴漢に襲われ自殺、その仇討ちのために修行に出たとされています。
明治二十六年(1893年)祖父の遺言「世が平和になったら公開せよ」と共に譲り受けた宝物と文献を持って上京。
東京の御嶽教(みたけきょう)本部に入信し、鞍馬山・大悲山で千日間に渡る修行をし、そこで大己貴尊(おおなむちのみこと:大国主命と同一神といわれる)をはじめとする修行者や神霊などから神法道術や神代文字を学んだのだそうです。
その後、元々天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめたましいたまや)と称して、天超根中国の皇城山(あまこしねなかつくにおみじんやま:富山県)に奉祭されていましたが、明治四十三年(1910年)に茨城県北茨城市磯原町磯原に皇祖皇太神宮を再興しました。
明治七年(1874年)寡婦杉政みつの私生児として生まれるも、父親については定かではない。
生後まもなく婦負郡神明村久郷の小作農竹内庄蔵の養子となり竹内岩次郎と称した。。
養父母、養祖父母ともに死別後、上京して石工人竹橋五郎方に住み込み、職人見習いとして働いた。
明治三十三年(1900年)磯原に天津教の前身にあたる御嶽教天都教会を設立し、当初は御嶽教の一支部として出発した。
と、官憲の調書にはあるそうですが、定かなことはわかっていません。
少々ややこしくなりますが、別系統で竹内宿禰の子孫は現在でも確かに続いており、竹内宿禰の名を承継しています。
南朝小倉宮竹内家を承継し、第七十三世竹内宿禰・竹内睦泰氏が存在しており(現在は七十四世に代替わりされているとか)、「正統竹内家」と称しています。
拠点は越中射水郡二上山(現 富山県高岡市)にあり、全国の二上山にも祭司が住んでいるとのこと。
正統竹内家では、竹内巨麿を否定しているそうですが、正直申し上げて、詳しいことはよくわかりません。
皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)は、特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教を包括する万教帰一の神宮。
御祭神は天地身一大神(あめつちまひとつのおおかみ:天地創造の大元神:別名 元無極體主王大御神(もとふみくらいみぬしおおかみ))、天国竈大神(あめくにかまどおおかみ)、皇祖皇太神(すみおやすみらおおたましい)、別祖大神(とこおやおおたましい)、神国御廟命大神、神明三十日明大神、日月人風光主大神。
ここでは、古式神事がそのままの形で継承されているといわれています。
昭和四十年(1965年)1月27日、竹内巨麿逝去。
長男義宮氏が巨麿の跡を継ぎ、皇祖皇太神宮の第六十七代管長に就任。
平成十一年(1999年)、義宮氏が逝去し、現在は義宮氏の長男康裕氏が第六十八代管長を務めておられます。
巨麿の四男、高畠家に養子に行った吉邦氏は「天神人祖一神宮」(富山県滑川市)の管長。
富山の皇祖皇太神宮跡地には、現在小さな祠が建てられてます。
3、天皇が天皇たる所以(ゆえん)
中国の清朝までは皇帝、朝鮮王朝も王、イギリスもスペインもタイなども国王、しかし日本では天皇(てんのう:スメラミコト)と称されています。
世界で唯一つ、日本だけが天皇と称するには、なにかしら理由があるはず。
そう考えたことはありませんか。
天皇とは、この天の下にある全世界を統べる者という意味があります。
そして何より天皇家の御紋である十六菊御紋は菊ではなく、地球上の十六の地域を天皇が統率しているという、天皇の権威を象徴する紋なのです。
さて、「竹内文書」の記述についてだが、一概に偽書とは言い難いところがあります。
記載の記述の裏取り調査を行うと、現実と合致することが多い、いや多いというよりその通り揺るがぬ真実がそこにあることに気付きます。
まあ、時の権力者によって都合よく改ざんされた現在の歴史書を守らんとする力が働いているとしか言いようがない、そんなふうに思ってしまうのです。
筆者は別に竹内文書の心棒者でもなければ皇祖皇太神宮の信者でもない、歴史の真実を唯知りたいだけの歴史研究家に過ぎません。
否定できぬものは否定できない、認めざるを得ないことは認めるしかない、心を柔軟に、いつでも真実を受け入れることができなければ謎は謎のままになってしまうと思うのです。
竹内文書によると、宇宙天地創造、開闢(かいびゃく)の神皇、天地身一大神(元無極體主王大御神:プレアデス星(団)からやってきたという)から天御光太陽貴王日大光日大神(あめみひかりおおひなかきおうひおおてるひおおかみ:別名 メシヤ)までの天神七代。
天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみのしみひかりおおかみてんのう)から天津彦火火出身光天津日嗣天日天皇(山幸彦)までの上古廿五代(皇統二十五代)。
武鵜葺草葺不合身光天津日嗣天日天皇(うがやふきあえずのみこと)から七十三代狭野尊天日嗣天皇(神倭朝初代神武天皇:神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)に改名)までのウガヤフキアエズ朝。
そして、現在の文明、神日本磐余彦尊から今上天皇までを神倭朝(かんやまとちょう)といい、現在の文明の前にも2回ほど現在のような高度な文明が栄えた時代があったということです。
ただ、もしかするとそれは地球ではなく、火星での話ではなかったか、かつて人類の文明が栄えていた火星なのではないかとも読み取れるのです。
地球いや、この宇宙に人類が存在して以降、天皇がこの星を統べてきたということではないかと思うのです。
この地球の天地創造は天神七代の神々(天皇)によって造られ、第四代の神によってほぼ形作られ、第五代の夫婦神が初めて地球に降臨したといい、岐阜県高山市の船山がその降臨地とされており、六代神の代に地球に滞在するための神殿を高山市の位山に建てたとされています。
そして今から約三千億年前、第七代の子(天皇)が地球に定住して統治することになるのだが、これが上古廿五代と呼ばれる文明のはじまりとされています。
この時に、高山の位山から、富山に神殿を遷した、そこが皇祖皇太神宮が祀られている一帯であるそう。
この地は世界の統治者、天皇の聖地であり、全ての人類の発祥の地ということになります。
そのため、世界の宗教者たち、釈迦(釈尊)、イエス・キリスト、マホメット、モーゼなどもこの地に滞在して多くの事柄、世の理を学びました。
上古王朝後半、世界的な天変地異によって日本を中心とする世界王朝は衰退、この一帯に栄えた王朝も崩壊し、倭王朝は畿内へ移転していったのではないでしょうか。
ちなみに、高山が天皇降臨の地であることを今でも示す事として、現在でも受け継がれていることがあります。
それは、天皇が即位に関する一連の儀式で使用する笏は、太古より岐阜県高山市の位山にあるイチイ(一位にかけているとか)の木で作ることになっているのです。
4、世界の成り立ち
プレアデス星から移住者(人類)が地球に流入した訳だが、地球人は当初いまの日本人、つまり黄色人種だったが、それが住んだ地域の風土や気候・食物等によってその地域に順応できるよう、また天変地異などにより、長い歳月をかけて変化し五色人(イイロヒト)に分かれました。
そして、世界統治のため、天皇の皇子や皇女が世界各地に派遣され、民王(ミットソン)になり世界各地に天皇の威光が広まりました。
その象徴が菊御紋であり、世界各地の古代文明には今でも菊御紋が見られるそうです。
古代天皇は天浮舟(あめのうきふね:古代の飛行空母)に乗って世界各国を巡幸し、世界を統治していました。
この天浮舟は、日本国内はおろか世界中に点在するピラミッド(人工の山)のネットワークによって宇宙の生体エネルギーを以て飛行していたといいます。
当時の超高度文明は、そうした今では考えられないような力があったそうです。
富山県立山の尖山(トンガリヤマ)は、古代ピラミッドのひとつであり天皇の宮殿があった、そこから天浮舟を発着させて世界を飛行していました。
元々人類は黄色人種であったのですが、それぞれの地域の気候や風土等によって、原型である黄人(きひと:日本人やアジア人)、赤人(あかひと:ネイティブアメリカン、一部のユダヤ人)、青人(あおひと:青白い肌、現在はほとんど見られない)、黒人(くろひと:インドの原住民族やアフリカ人)、白人(しろひと:白い肌やプラチナ、ブロンドの髪のヨーロッパ人)に分かれました。
これを五色人といいます。
オリンピックの五輪が五色なのは、上記の理由からきているそうで、かつて満州国建国の趣旨であった五族協和にも通ずるものがあります。
世界は、天皇と日本を中心として成り立っていたのですね。