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歴史好きが訪ねた、武田信玄公の世界! 其の一


はじめに

皆さんご存知の甲斐の武田信玄公(武田大膳太夫信濃守源晴信入道信玄公:たけだだいぜんだゆうしなののかみみなもとのはるのぶにゅうどうしんげんこう)は、諱(いみな:本名のこと)を武田晴信といいます。
信玄とは得度(とくど)後の法名です。
甲斐源氏の第十九代当主であり、武田氏十六代当主でした。
今回は武田信玄公についてお話させていただきたいと思います。
尚、ここでは基本的に「武田信玄、或いは信玄」と尊称を付けずに記しますことをご了承いただきたく予め申し添えます。

一、甲斐武田氏の発祥

甲斐武田氏発祥の地の碑

武田氏は甲斐国(現在の山梨県)に土着した清和源氏(せいわげんじ)、河内源氏(かわちげんじ)系一門で、源義光(みなもとのよしみつ:新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ))を祖としています。
源義光を祖とする家系としては、常陸源氏(ひたちげんじ)の佐竹氏、信濃源氏の平賀氏、小笠原氏、南部氏などがあります。

武田氏館

武田信玄の系統である甲斐源氏の発祥は、実は常陸国(茨城県)にあるのです。
茨城県ひたちなか市武田に「甲斐武田氏発祥の地」の碑があり、武田氏館が再現されています。
また、その近くには湫尾神社(ぬまおじんじゃ)があり、ここ常陸国那珂郡武田郷(ひたちこくなかぐんたけだごう)の鎮守で、武田大明神として人々から崇敬されています。
御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。

湫尾神社

源義家(みなもとのよしいえ:八幡太郎 はちまんたろう)の弟義光は、平安時代後期に常陸国へ進出し、三男義清を那珂郡武田郷に住まわせました。
源義清は地名の武田を氏(うじ)として武田氏の祖となります。
義清とその子清光は、領地拡大のため周辺の勢力と争っていたのですが、行き過ぎた行為があったとのことで朝廷に訴えがあり、義清父子は甲斐国へ配流となってしまいました。
しかしその後、甲斐に土着し、親子は勢力を拡大し、第十九代当主武田信玄へと続きます。
義清の館は武田郷の南端にある武田台地と呼ばれる場所の突端にあったそうです。
この辺りは先土器時代から平安時代にかけて建物の跡や遺物が発見されています。

二、武田信玄の誕生

積翠寺

積翠寺は、奈良時代に行基(ぎょうき)が開基した寺院といわれます。
境内の巨石から泉が湧き出ていたことから石水寺と呼ばれていましたが、後に積翠寺に名称が変わりました。
大永元年(1521年)武田信虎夫人が戦火を逃れるために避難したこの寺院で信玄を産んだとされています。
境内には産湯の井戸や産湯天神などがあり、信玄がここで生まれたことを物語っています。
ただ、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に付随する要害山城で信玄が産まれたとの説があるのですが、明確なことは今ひとつわかっていません。

要害山城と発掘中の躑躅ヶ崎館味噌郭および隠居郭

室町時代、応永二十三年(1416年)前、関東管領上杉氏憲(かんとうかんれい うえすぎうじのり:禅秀)が鎌倉公方(かまくらくぼう)といわれた足利持氏(あしかがもちうじ)に対して反乱を起こしました、これを「上杉禅秀の乱」と言いますが、この乱を機に守護の権威が失墜、有力国衆が台頭してきたのです。
信玄の曽祖父武田信昌の時代に守護代跡部氏を滅ぼすなど、甲斐国内統一が進んでいったのです。
信昌の孫、つまり信玄の父信虎の代で甲斐統一を成し遂げました。
永正十六年(1519年)には、甲府(古府中)の躑躅ヶ崎館を本拠とし、中心とした城下町を造り、家臣団の屋敷も館の周りに構えさせ、組織が整備されていきました。
室町幕府衰退によって守護の位置付けも曖昧になり、下克上などにより乱世、つまり戦国時代に突入し、武田氏も戦国大名として強大な地位を固めていくことになっていきました。

躑躅ヶ崎館(現武田神社)

信玄は、形ある城などなくとも、人との関係性が形ある城より優れており、人と人とが力を合わせて国を守ることが出来るのだとして城を築かなかった、と言われますが、そんなことはありません。
城はしっかりと構えており、有事の際に籠城して戦えるよう整えてありました。
しかし、「人は城 人は石垣 人は濠(ほり) 情けは味方 仇は敵なり」という信玄の考え方を象徴している詩の如く、人こそが城なのだという考え方は常に根底にありました。

躑躅ヶ崎館 西郭

躑躅ヶ崎館(現武田神社)は甲斐国守護武田氏の居館(守護所であり、政庁)。
戦国大名武田氏の領国経営における中心地でした。
跡地には武田神社があり、国の史跡に指定されています。
信虎、信玄、勝頼三代六十年余りにわたって府中として機能していました。
15世紀初頭まで守護所は八代(笛吹市)、千野(甲州市)に置かれ、当時の政治・経済の中心地は石和に置かれていました。

躑躅ヶ崎館 大手

躑躅ヶ崎館の背後には要害山城を築き、有事の際は籠城できるように築城したのです。
天正十年武田氏滅亡後、徳川家康によって天守も築かれたそうです。
その後、天正十八年(1590年)に甲府城(別名 舞鶴城)が築城され廃城となりました。

長禅寺

大永三年(1523年)信玄の兄竹松が7歳で夭逝、信玄が嫡男となりました。
信玄は幼少期から学問や政道を、長禅寺という寺院で学びました。
住職岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく:信玄の母である大井夫人が招いた)から人間形成に大きな影響を与えられたのです。
また、信玄はこの長禅寺で得度し、武田晴信から「機山信玄(きざんしんげん)」(徳栄軒と称することもあった)という法号を授与されたと伝わります。

長禅寺 境内
大井夫人霊廟

瑞雲山長禅寺、臨済宗の寺院で、創建は天文二十一年(1552年)、開基は大井夫人です。
この長禅寺は、甲斐西部の国人領主である大井氏が治めていた巨摩郡相沢(現南アルプス市鮎沢)に建立され、大井氏の菩提寺でもありました。
元々存在していた寺院で、臨済宗以前の寺号を前後区別するために、古長禅寺と称し、元は真言宗だったのですが、正和(しょうわ)五年(1316年:鎌倉時代)甲斐国に臨済宗を布教していた夢窓疎石(むそうそせき)によって臨済宗に改宗されたというわけです。
江戸時代に入ると甲斐一国が幕府直轄領化され、長禅寺前に甲府代官所(長禅寺前陣屋)が置かれていました。
現在も大井夫人の墓所が残されています。

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