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労働
母、73歳の春に一人暮らしをはじめて、もう一年が経つ。
怒涛だったがどうにか乗り越えた。
この人、口だけじゃなかったんだ…とはじめて思ったかもしれない。
親としてそういう背中を見せてくれたことだけでも、私は静かに感動していた。
身体に不自由があるので介護認定を受けるため、先日立ち会いにむかった。
市役所の方はそれはそれは几帳面な方で、キャラクター図鑑のようなものがあれば“市役所で働く人”のページからひらりと飛び出してきたような人だった。
そして挨拶もそこそこに、突然角度をつけて
「お〜な〜ま〜え、いえますかあ〜?!」とむちゃくちゃ大きな声で、ゆっくぅりと、母に声をかけてる。
あ、むり。わたしは焦った。
なんせ声がでかい。
笑ってはいけないよ、だめだめ。
「ね〜んれ〜い、おしえてくださああい」
「おーたんじょうびぃーいえますかあ〜?!」と、猛烈なパンチラッシュに、私は耐えきれずくるっと背中をむけた。咳き込むふりをして、結局笑う。
こんなんぜったい負けてまうやろ。
母はお嬢様育ちなのでわかりやすくムッとしていた。
やめて、ここで張り合わないで。
(そんな婆さんじゃないわい)と顔に出ている。
やけに品よく、粛々と静かに答えていた。
「いーまーぁのぉ、きせつはぁ〜なんですかあ?」という質問、非常に良かったね。
それは難しい。
春のようだが、夏みたいに暑い日がある。長袖がちょうどいいけど、昼間は半袖になりたい。それはなんの季節ですか?
母は「う〜ん、春ですかねぇ」と淑女らしく答えてた。(あ、母にとったら春なんだ)と思う。
私にとったらこれはもう初夏です。
母はプライドだけは高いので、キャラクター図鑑の市役所さんにいちいち張り合っていて可笑しかった。
自分の髪を櫛でとけるか?とか、顔を自分で洗えるか?とか爪を自分で切れるか?とか。
(時々サボってるだろ)と思うが、母はすべての質問に淑女らしくYesと答えている。
そうすると段々「そのくらいできるわい!」みたいなふうになり、ついにはどこにも掴まらず自力で立てるみたいなかんじになって、いやいや!とケースワーカーの人と思わず冷や冷やした。
いま、介護認定受けてます。
最後にヒソヒソ話で、市役所さんから「お母さま、こんなところありますか?」みたいな沢山の項目が書かれたシートを見せられて、そこには「同じ話を何回もする」とか「独り言をいう」とかが書いてあった。
どちらも当てはまったので、素直に答えていたら「まぁ…みんなそうですよね…」「私も同じ話するし、独り言いいますもん」と市役所さんが話し出す。
笑顔だ!
なんだ、笑ってくれるんじゃない!とホッとした。
「よく嘘をつく」「見栄を張る」という項目はないんですか?と質問したら、なんかえらくウケた。うれしい。
その項目、介護認定にはないらしい。
最近、ハンナアレントという哲学者の言葉に触れた。「人間の条件」という本を書いた学者だ。
労働とは生命活動と深く結びつく営みである、とアレントは考えていて、ここで「労働」と訳されている言葉は英語で“labor”と書いてある。
この言葉には、単に労働という意味だけではなく「陣痛」とか「分娩」という意味もあるのだそう。
つまり、女性が子供を産む過程にも“lador”があると。
労働とは(lador)いのちの営みであり、仕事(work)は何かを作ることを意味している、それが労働と仕事の違いだと書いてあった。
母も私も大病をして、健康を著しく失ったまま、それでもバランスを保ちながら生きている。
アレントの労働観からいえば、こんな私たちは猛烈に「労働」しているともいえるらしい。
労働=いのち、すなわち生きることに深く従事していると。
誰かを失ってはじめて、その人の存在が心の中でぽっかりと空白を作ることがある。
ほかのなにでも埋まることがない、もう二度と会えない、触れられない悲しみ。
それこそ、その存在が激しく猛烈に生きたという「労働」があったという証であるという。
ほかの誰にもわからない自分がいること、苦悩すること、そこからの視点で自分の世界を深めることこそが「労働」なんだと、アレントさんは書いていた。
哲学は面白い。
長い歴史を辿っても、人の悩みはずっと同じなのだ。
誰かに肯定してもらいたいと思ったり、共感がほしかったり、好かれていたいと願ったり。
そういうことは本当にどうでもいいことで、
自分が好きなのか?心地いいのか?求めているのか?それを大事にできることを優先していいのだ。
それが与えられている労働なんです。
介護認定は無事終わり、母はまたひとつ安心して暮らしていけるサポートを得た。
みんな激しく生きている。
猛烈に生きている。えらいよ。
孤独でも、わからなくても、寂しくても、誤解されていても、一方ではとてつもなく愛されていて保護されていて、大きく深く護られている。
なにもできなくてもいいから、長生きしていてほしい。母に限らず、愛するいのちすべてにそう思う。