『やかん』
お湯を沸かそうとやかんを手に取った時、ある疑問が浮かんだ。
『やかんとケトルの明確な違いはなんだろう』
まず第一に思い浮かぶのは形状の違いだ。やかんはずんぐりしていて注ぎ口が大きい、ケトルはシュッとしていて注ぎ口が細長い。次に用途の違いもある。やかんはケトルより多くの容量のお湯を沸かし、一度に注ぐ量も多い。一方ケトルは少量のお湯を素早く沸かし、口の細さからピンポイントにお湯を注ぐ事が出来る。
やかんか、ケトルか。
その定義付けは専門的な領域では必要になる場合もあるかもしれないが、大抵、末端のユーザーからしたらそれを考える為に使うエネルギーに見合ったリターンは見込めない。ストレートに言って無駄だ。
しかしながら、やかん又はケトルの立場から考えると話が変わってくる。『自分がやかんであるか、ケトルであるか』それは、いわば彼らの精神の土台にくるアイデンティティであり、自我の拠り所である。間違った名前で呼ばれれば、誰だって嬉しいはずが無い。『自分はやかんである』と認識しているのに、ユーザーからは『これはケトルだ』として使用されていたとしたら、これほど悲しい事はない。コーヒーを入れるのに最適だと自負しているのに、いつもいつもカップラーメンにばかりお湯を注いでいたら、その内カンカンに怒ってしまう。人間のあまりの無理解にへそで茶を沸かしてしまうかもしれない。
たまに、なかなかお湯が沸かない事があるが、それはやかんをケトルと認識して使用していて、やかんの気持ちが冷めてしまっている時かもしれない。またはお湯の量が多いか、外気温が下がってるか。
このように、やかん又はケトル側の視点に立ってみると、やかんかケトルかの定義付けが、彼らにとって如何にデリケートかつ意味のある問題であるかに気付かされた。やかんだけに、ふっとした瞬間に。
というわけで、「自分にとっては無意味だと思える事柄が、相手にとっては重要な事であるケースは多い」という話でした。
ちなみに、やかんとケトルの明確な線引は無いそうです。
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