明日世界が終わるとも、今日、僕は林檎の樹を植える

タイトルになっている言葉は、マルティン・ルターという人の言葉です。この人は、大体昔に日本では無いどこかの国で何かした人です。

意味合いとしては「例え未来の絶望を知っていても、今日やるべき事をやっていこう」みたいな感じでしょうか。
あるいは、ルターがキリスト教の宗教改革家だった点に着目して「『明日世界が滅ぶ』はキリスト教での審判の日の意味であり、『林檎の樹を植える』はキリスト教における禁断の果実である林檎(知恵)を後世に伝える事を意味している。つまり、(教会から)この先どんな迫害を受けても、改革の為に活動を続けていく決意を表してる」なんて読み取り方もあるようです。

いずれにしても、知っていると学のあるフリが出来ていい言葉だと思います。

という事で、今回は「宗教」をテーマに語ってみようと思います。
先に行っておくと、私は宗教には入っていません。信じる神もいません。そもそも幽霊もUFOも信じてません。実家は昔からある家なので、仏教とかには入っているのかもしれませんが、私自身は至って【無神論者】です。

余談になりますが、よく「日本人は【無宗教】だ」と言われます。この【無宗教】という言葉と、私が自覚している【無神論】、名前は似てますが実は全く違うものです。【無神論】とは「神はいない」と主張する事であり、【無宗教】とは「唯一と信じる神がいない(神的な存在は否定しない)」と主張する事です。
例を上げると、「神は信じてないけど楽しいから初詣は行く」は【無神論】的な考え方、「お参りすると何か良い事がありそうだから初詣は行く」は【無宗教】的な考え方、となります。前者は現実に起こる部分だけを想定しており、後者は現実を超えた部分までを想定しています。当たり前ですが、これはどちらが正しいというものではなく、ただ心のスタンスがどのようかの話です。

思うと、子供の頃から、私はあまり神に祈った事がありません。大人になるまでクリスマスを祝った事が無く、初詣にも行きませんでした。それは宗教関係なくただ家が貧乏だったからです。
また、「神頼み」とか「一か八か」といった考え方が苦手です。ゲームにおいても、堅実でギャンブル性の少ない戦術や、可愛い女の子のキャラクターが好みです。
私は、「神頼み」や「一か八か」は、完全な確率に支配される感じがして嫌なのです。
ある程度超常的な存在を信じていれば、出た結果に対して「今はこっちに流れがあるな」とか「ツキに見放されたな」と一喜一憂出来るのでしょうが、私は「確率で勝った(負けた)」という感想しかなくてあまりオモシロクないのです。当然、競馬も競輪も競艇にも興味がありませんし、パチスロは、ゲームセンターにあるような、勝っても負けてもなんでも無いようなものしかやる気がありません。こういうと「競馬や競輪、パチスロにだって技術介入の余地はある!」と怒られそうですが。

いずれにせよ、私は神を信仰の面でも、実在するかの面でも信じていません。ルターの言葉を借りるなら「もし明日世界が滅ぶなら、今日はもう寝る」になりますね。

ただ、宗教や神を信じる人を否定する訳でもありませんし、むしろ積極的に理解出来ると考えています。そりゃあ、辛い時不安な時には神に頼りたくなるのも分かるし、時には運を天に任せた方が楽しい時もあるでしょう。
その意味で、私は宗教を信じる人を侮蔑、嘲笑するような発言にとても不快感を覚えます。
SNSでは、度々特定の宗教を馬鹿にするような投稿がありますが、それはただ幼稚で危険な発言です。宗教は、それを信じる者の人生に多くの勇気と希望を与え、不安と恐怖を取り除いてきました。それを否定する事は、世界中の憲法が定める信仰や宗教の自由を否定する大変危険な行為と自覚する必要があります。当然、日本国憲法でも第20条において「信教の自由は何人に対してもこれを保障する云々」と定められています。
日本人の中には、宗教に悪いイメージ、犯罪集団のイメージがあるかもしれませんが、それだけで他人の希望を嘲笑うべきではありませんし、自分の信ずる所を疑う必要もありません。

といった所を申し上げて終わりにします。大分散らかった文章になってしまったので、覚えていれば次回への反省にします。

ちなみに、私は神も幽霊もUFOもを信じていませんが、オカルト話は大好物です。これもまた神秘。

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