『怖い団地』の話

 高校生の時、同級生(以下S)がピザ屋で配達のバイトをしていた。
 私達が住んでいた地域は県境が近く、Sの勤め先も県境を越えて隣の県のY市にあった。隣の県といっても、自宅から原付で片道10分も掛からないくらいの所で、自分やSにとってはY市もまだ地元と呼べる範囲だった。
 しかし、地元とは言っても他県は他県。奥へ奥へと踏み込むにつれ、段々と見知らぬ風景になっていく。配達の仕事であれば尚更で、土地勘の無い場所の、更に細い道に入っていかねばならない事も多かった。その度、ナビだけが頼りの心細いドライブを強いられていた。

 ある日、SはY市の更に隣、C市からの注文を受けた。いつもSが配達する範囲は、ピザ屋のあるY市周辺に留まっていたが、その日は他に行ける人が居ないという事でSに声が掛かった。バイトという立場上断ることも出来ず、Sは乗り気のしないままバイクに跨った。時刻は18時前、背後には日没が迫っていた。

 Y市とC市は大きな川を境にしている。Y市は歴史ある街で、人口は少ないものの商業施設が多く、治安はそこまで悪くなかった。一方のC市は、交通量の多い道路沿いこそ明るく賑わいを見せるものの、道を一本外れると、途端に街灯が減り、薄暗く淀んだ雰囲気を漂わせていた。
 普段の配達業務では渡ることのない橋を渡り、SはC市に足を踏み入れた。
 幸いにも、配達先は、橋を越えてすぐ川沿いの脇道に入り、そのまましばらく道なりに進んだ所にあった。
(これならすぐ帰れるな)
 Sは橋を渡り、ナビ通りに脇道に入った。
 話に聞くとおり、一本路地に入ると、そこはなんとも陰気だった。
 まず、道幅が狭かった。左右にトタン屋根の平屋が並び、それなりの稼ぎの有りそうな家はどこも背丈程の塀で囲われていた。その様子がとても閉鎖的にみえた。少し進むとテニスコート半面ほどの空き地に、ぽつりと小さな祠が建てられていて、道路に面して三体、崩れかけの地蔵が並んでいた。その脇の林には朽ちた鳥居が打ち捨てられていた。
 からん、と錆だらけの消費者金融の看板が風で鳴った。
 Sは気味が悪くなり、スピードを上げて目的地への道を急いだ。

 予想に反して配達は滞り無く完了した。お客さんも、愛想のいい丁寧な人で、街並みに気圧されていたSは少し拍子抜けしたくらいだった。
 帰り道、Sはまたあの道を通るのが怖くなって、違うルートを辿れないかとナビの設定を変更してみた。すると、川沿いを走らず、明るい大きな通りに出てから帰るルートが見つかった。
(これで帰ろう)
 Sはバイクに跨ると、行きの時よりも少し軽くなった気持ちで出発した。

 しばらく走ると、Sは団地のような場所に差し掛かった。そこは、左右をコンクリート製の集合住宅に挟まれた道だった。集合住宅は4階建てだったが、実際にはずっと高く感じられた。それは、建物同士の間隔が狭く車道が圧迫されている為、集合住宅が左右から道路を見下ろすような格好になっているのが原因だった。建物は奥まで左右3棟ずつ、合わせて6棟立ち並び、すっかり暗くなった空が妙に狭く感じられ、嫌な閉塞感を与えてきた。
 辺りは真っ暗でバイクのエンジン音だけが、無機質な建造物に反響している。まるで、墓地にでも居る気分になった。
 距離にするといくらも無い区間だったが、Sはなるべく早く通り過ぎようとアクセルを強めた。
 一棟目を何事も無く通り過ぎて二棟目の前を通った時だった。
 Sは視界の隅に視線を感じた。見ると、前方右側の建物の二階のベランダから誰かがこちらを見下ろしていた。Sから見て一番遠い場所にある、階段隣の角部屋に位置する部屋だ
 部屋の電気は付けておらず、遠目では人影があることしか確認できない。
 ……いや、待て、何かがおかしい。
 Sは、自分を取り巻く「異常」に気が付いた。
(この団地、どの部屋も電気が付いていない)
 日は落ちてすっかり暗くなっているというのに、一つ残らず、全ての部屋が暗いままなのだ。まるで、突然深夜に時間が移動したかのようだった。
 ここは廃墟なのかとも思ったが、暗いながら、他の部屋にも人の気配を感じた。それに、廃墟だとしたら、今あの二階に見えるあの人影はなんだろう。
 前方に注意しつつ、Sは近づきつつあるその住人を注視した。男性だろうか、顔を下に向けて、道路を覗き込むようにしている。
 部屋の前まで来ると、暗闇にぼんやり映るその姿が、じわっとその輪郭を明らかにした。
 Sは血の気が引いた。
 じっと下を向いた男、俯いたその首から、ロープが一本、天井へと続いていた。体重を支えきれなくなった首は粘土のように引き伸ばされ、閉まらなくなった口から涎が糸を引いていた。眼球のあった所は窪み、変わりの二つの空洞がSを見下ろしていた。
 そのおぞましい光景を見て、Sは一瞬体が動かなくなった。
 バランスが取れなくなったバイクはたちまち暴れ出した。ガタン、と大きく車体が揺れた。前輪が道を大きく逸れ、歩道の段差に乗り上げたのだ。その衝撃でSは我に返り、咄嗟にブレーキを掛けた。衝撃で前につんのめったものの、バイクは停止し、辛うじて転倒は免れた。
 静かな団地に、自分の荒い息遣いだけが響いた。
 Sは再び二階を見上げた。
 そこには、もう何も無かった。
 首を吊った男もいない、ロープも無い。
 見間違い……と言うにはあまりに生々しい光景だった。
 脳裏にフラッシュバックする先程の映像から逃げるように、Sはバイクを車道に戻し発進した。

 Sはその次の日にバイトを辞めた。
 辞める理由を店長に聞かれ、Sは団地での一件を伝えた。
 店長は、「またか」と呟き、こう続けたという。

「皆、『出る』って言うんだよね。あそこ、元はある会社の社員寮だったんだけど、今は廃墟でもう誰も住んでないはずなんだけどね。明かり、付いてなかったでしょ?」

 現在、団地は建物が取り壊され、別の会社の立派な社員寮が建っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?