『アリとキリギリス』の話

小学生の時、道徳の授業で『アリとキリギリス』のお話を読みました。『アリとキリギリス』というのは、まぁ説明するまでもありませんが、夏の間働かないで遊んでいたキリギリスは冬を越せず絶命して、一生懸命働いたアリは食料を蓄え冬を越してから絶命する話です。
ひねくれていた自分は、「やりたくないことやって生きるアリより、やりたいことやって死んだキリギリスの方がかしこい」と感想文に書いてやりましたが、当然のごとく教師にバッテンをつけられました。
当時は納得いかずにくやしい思いをしましたが、今となっては、あの教師の判断も、ある意味ひとつの正解なのかなと思う節があります。

「人は独りでは生きられない」とは、井上大輔の『ビギニング』の歌詞です。
童話の中でキリギリスが弾いていたバイオリンは、当然、どこかの職人が作ったものです。そのバイオリンに使われている木材も誰かが伐採、裁断したものです。そして、完成したバイオリンを流通させ、販売したのも、どこかの誰かです。このように、あらゆるものは誰かの『仕事』の延長線上にあります。無人島にでも生きない限り、必ず誰かの『仕事』の結果を享受します。
そして、この社会はそんな大勢の『仕事』の結果で構成されています。
ならば、その社会に旅立つ人材を育てる学校は『仕事が出来る人』を育てる必要があります。これは、社会が社会を存続させるための大切なシステムだと私は考えます。
もちろん、皆が皆、真面目な働き者にはなれないでしょうが、少なくともキリギリスばかりでは社会が成り立たなくなります。キリギリスばかりでもオーケストラは組めるかもしれませんが、オーケストラは道路を敷いたり、電気を産み出したり、アルミニウムの塊を削ってエンジンを作ったりはできません。大勢のアリがいるから、キリギリスはやりたいことをやって生きていけたのです。

そう考えると、誰かが用意してくれた物に囲まれながら「一人で自由に生きるから賢い」と、そう思うのは、あまりに思い上がり甚だしいといえますね。
最期は冬の寒さに凍えながら、アリに物乞いし「夏の間は歌っていたんだから、冬の間は踊っていれば」と皮肉を言われるのも、仕方ないのかなも思わずにいられません。


『天上天下唯我独尊』という言葉があります。
ヤンキーがよく背中に刺繍しているやつです。
一般的には『自分だけが偉い』みたいな意味でとらえられますが、実はこの言葉は仏陀の言葉といわれています。
聞いた話によると、仏陀が生まれてすぐに、七歩歩いて喋った言葉といわれていますが、さすがにこれは後世の創作と思います。三歩くらいしか歩いてないと思います。

仏陀といえば、仏教を広めた偉い人ですから、そんな人が「俺だけが偉い」とは言いません。
では、どんな意味かというと
『天上天下を探し回っても、自分はただ独りで、同じ存在はいない、それだけで尊い』となります。
それは、いわば『人間は平等で等価値である』ということでもあります。
他人と比べる必要はなく、無理に着飾る必要もなく、ただ命のあるだけで尊い。それが仏陀の大切な教えでした。良いこと言いますね。

現代社会では、SNSの普及により、常に休み無く他人と比較できてしまいます。自分より才能のある人間に嫉妬したり、自分より困難な状態にある人を見下したりすることもあるでしょう。
そしてその情報の波の中で、承認欲求に囚われ苦しんでいる人を大勢みます。
仏陀が教えるように、『ただ、自分であることが尊い』という本質を見失ってしまうと、あっという間に承認欲求に足を引っ張られてしまいます。私自身もよくあります。他人と比較してしまいそうになっても、そこをグッと堪えて揺るがない精神が欲しいものです。


この『天上天下唯我独尊』の話と、先に出した『アリとキリギリス』の話、この二つの話は、決して無関係ではありません。むしろ、密接に関係していると思っています。前者はキリギリス側の問題、後者はアリ側の問題への言及ともいえます。

今回のまとめとして、なぜ小学生の頃の私は「やりたくないことをやって生きるアリより、やりたいことをやって死ぬキリギリスのほうがかしこい」と考えたか。その点を掘り下げてみたいと思います。

ひとつは『ただ、自分であることが尊い』という考えを知らなかった点があります。

「他人と違うことをするから、楽しい」
「他人と同じことをするから、つまらない」

と、そこまで小学生が考えたかは疑問ですが、大体は当時こんな感じで考えていたんじゃないかと推察されます。アリはみんなと同じことをしているからつまらない、キリギリスはみんなと違うことをしているから楽しい、というわけですね。
大人になって気付きますが、実はそうではない。
他人と同じ事ことをしてもそこで個性を出して楽しんでいる人もいるし、他人と違うことをしている気になって実は無個性的で楽しめてない人もいる。

『ただ、自分であることが尊い』と理解すれば、他人と自分の「同じ」が実は「違う」と分かってきます。
どういうことかというと、その物への、向き合い方、理解のレベル、感じ方……自分の中でこねくり回されて生み出された『オリジナル』というものは、他人と何もかもが違います。料理を例にすれば、作るものは同じでも、その料理を作る目的や、作る手順、味付け、思い入れ等の微妙な差異などは数限りなく、出来上がりも人それぞれ違います。しかし、出来上がったものは見た目も料理名も同じですので、そこだけみて「同じだからつまらない」「同じだから意味がない」となっては、小学生の私のレベルを言わざるを得ません。

アリもまた、みんな同じように働いているように見えて、それぞれが違う存在で、違う事を考えながら働いていたはずです。それぞれの幸せのかたちも違ったことでしょう。家庭も様々あったかもしれません。アリ一匹一匹が『天上天下唯我独尊』でありました。
つまり「アリの人生はつまらない、無意味」と決めつけること自体が、人生というものへの不理解不認識によるものだったといえます。

そして、そんな、アリ達への尊重を忘れ我欲に埋もれたキリギリスのような、みじめな人生を送ってはいけない、というのがあの時の教師の教えだったのかもしれません。

そうした考えを踏まえて、いまもう一度『アリとキリギリス』を読むと、やっぱりキリギリスがいいなぁと思います。
なぜなら働きたくないからです。

おわり。

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