脈絡のない最小単位に居場所はないのである(思考の整理・意味不明です、ご注意ください)

このところの様々な事件や、自分の個人的なあれこれからも思うのだけど、「家族」というものの概念はもはやただの足枷になっているのではないか、という気がしてしまう。うまく言えないのだけど。

「家族」という謎の集合体に吸収されると、人はこんなにも個性や感性や自主性を失ってしまうのか。あの個性的な人が、あの独特な感性の持ち主が、あの何でもひとりでこなしていた人が。
もちろん、そうじゃない人もいる。何も変わらずに新しい側面を得たのだろうと思う人もいるけれど、果たしてどれほどいるのだろう。ライフスタイルの変化が作家の才能を枯渇させるかのようなニュアンスの話はたまに耳にするが、無関係ではないのかもしれない。

それが悪いわけではないのだろうとも思う。他人に手を差し伸べることは難しくても、身内ならできるという心の働きが生まれるのかもしれないし、それがお互い様ならその集団は相互に助け合える。それがそもそも家族の機能で、その小さな単位を集合させたものが社会なのかもしれない。次世代を再生産するのに最も効率がいいのは、家族という形態なのだろうし。また、守ってもらわなければ生きていけない弱い人間が社会からこぼれずに生きていくためのセーフティネットでもあるだろう、主に精神的な意味合いにおいて。

しかしそれが必ずしも機能しないどころか、場合によっては、いやかなり多くの場合で機能していない、ということにもう目をつぶれなくなっているような気がする。家族を聖域化してそこにすべての解決を求めること自体に、もはや無理があるだろうと。これまでは見えずに済んでいたものが、情報伝達技術の発展により可視化されている。

ずっと以前から、家族が崩壊してしまうことはいくらでもあっただろうし、それはたとえば文学という形で残されていたりする。与えられなかったものを求めるように、芸術を生んでいった人間もいるだろう。
しかし、家族の周辺には社会がある。今も昔も閉鎖的であることに変わりはないかもしれないが、少なくとも社会と家族もまた助け合うものでなければならないはずである。しかし、家族と社会はお互いに責任をなすりつけあっているだけのように見えてしまう。

社会は家族に何とかして欲しいと思っているが、家族は平然と弱い者を切り捨てて社会に託そうとする。他人であればなおさらである。絶対とは言わないが、切り捨てられるのはそもそも崩壊した家庭の人間で、崩壊した家庭の人間を切り捨てた場合に、その人間は時として社会に牙をむく。社会は家族に説明を求めて、家族は責任を負うことから逃走する。家族を聖域だと信じている人々にはそれは信じられない光景かもしれないが、そんな例はきっといくらでもある。

社会であろうが、家族であろうが、結局最小の単位は個人だ。もう家族なんてすべて解体して、皆個人になってしまえばいいのに、と時々思ってしまう。個人と個人が必要な時だけ手を組めばいい、もっと柔軟に。今日はAさんと組んで明日はBさんと組めばいい。擬似家族になればいい。
さっさと技術が進んで、子供なんて試験管と培養液とロボットが育ててしまえば、もう本格的に家族なんて必要ないだろう。子供のせいで自由に生きられない、なんて嘆くこともない。

その世の中は間違っているだろうか?情のない世界だと忌み嫌われるだろうか?そうなのかもしれない。我々は一体何がしたいのだろう?情などでは何も解決せず、物であり金であり力の方がよほど威力があると知っていながら、何故ロジックで割り切れないセンチメンタルな感情を欲するのか。自分の幼き日をたどるように。それなのになぜ、情のあるはずの相手を無慈悲に切り捨てられるのだろう。矛盾しているし、こんな矛盾した集団はあぶなっかしくて所属するのが怖い。

自分の人生が今後も続くと仮定して、どんな選択を今後していくのかは現時点では全然わからないが、私もライフスタイルの変化とともに私を失ってしまうのだろうか。本当はその方がいいのだ、きっとその方が生きやすいのだ。私は普通に、当たり前になりたかったはずなのだし、本当はひとりではとても生きられない脆弱な個体である。
けれど、あの個性が、決断力が、感性が消えていってしまったことを思うと、本当にそれでいいのかと立ち止まってしまう。それは仕方のないことなのかもしれないと思い直しながらも、家族の中だけでしか生きられなくなり、家族だけを生かすことにした家族の集団が乱立する社会は、崩壊するだけなのではないか。なんだか、とてもこわいのだ。この弱い生き物が、当たり前に生きるには、すべての単位を最小までに分解しないともう駄目なような気がしてくるのだ。

家族は社会の縮図。社会は家族の集合体。家族にできないことは社会にもできない。社会に押しつけて切り捨てたつけは、家族に押しつけて社会から切り捨てたつけは、いつか必ず戻ってくる。その時に後悔してももう遅い。もう、遅いの段階に至っているのではないだろうか。何かに属することに安心しきって個人に戻れなくなる前に、たったひとりの個人になれた私が運が良かったと思うような時代になってしまうのかもしれない。個人にも集団にも自由になれる、そんな人間でいたいような気がしてきている。

何を書いているのか全然わからなくなってしまったが、時間がないのでこのまま載せる。



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