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親子喧嘩がめんどくさいわけは…

親子喧嘩。ああ、またこのパターンっていう感じ。

困りごとがあって、誰を責めるわけではないのだけど、我が身の不幸を嘆く息子…

ふん、ふん、それはつらかったねえ、大変だねえと
しばらくはカウンセラーモードで聞いていられるのだけれど、だんだんつらくなってくる。

こうしたらどう?という提案には  そんなことわかってるよ  あるいは
それができたらやってますけど?  と来るからこっちがキレかかる。

なんとか辛いところから助けてあげたい、何とかしたいと思うから、必死で解決策を模索する。頭の中の過去データを検索する。けれど、時代も性別も環境も異なるお母ちゃんが思いつくものなんて、屁にもならない。しかも、そこで彼が望んでいるのは「解決策を提案してもらう」ことではないのだ。悩んでいる方としては「話を聞いてもらいたい」「とにかく心を落ち着けたい」なのに、こちらは考えることと思いついたことを話すことに夢中になってしまって、その基本的なことができなくなっている。

さらに、「親子」であるということ。

子どもが語る「俺はダメだ」「環境にめぐまれていない」「才能がない」「あのとき、こうであったら…」は自虐的に語られるほど、親である自分が責められているように感じる。いろんな場面が思い出されては「あの時こうしていたら」「自分がこうだからこの子は」「なぜもっと…」と自身を責め始める。子どもの人生の時間は(少なくとも一緒に生活しているうちは)自分自身の人生と丸かぶりであるから、一人の人間の語ることとして客観的に聞くことが難しい。

ふう。単に愚痴をこぼしたかっただけなのだろうけれど、お互いに傷つく言葉を並べてしまうことがある。そして親は相手が一番心身に堪える言葉を知っている…;;


ここに誰か、両方の気持ちをちゃんと受け取って翻訳し直してくれる人がいたら良いのに。別ににくしみあってるわけじゃない。お互いが近すぎて、ちょっとした動きが相手を殴りつけたりしてしまうのだ。カウンセラーとか、近所のおばちゃんとか、お互いのこころをうまく翻訳して伝えてくれる人がいたら。


自分の心をすなおに伝え合い認め合える関係を、誰とでも持てるような人間でありたい。そういう社会であって欲しいと切に願う。


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