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「怒り」が「悲しみ」の表現方法なのだとすれば

「怒り」というのは二次的な感情なのだそうだ。最初に、自覚しないまま抱く感情(第一次感情)とは違うものなのだと。第一次感情はほとんどネガティブなもので「不安」「つらい」「悲しい」「疲れた」「寂しい」「嫌だ」「痛い」…そうした思いが外に出る時に「怒り」という形を取るという。

うちのうさぎの「うー」さんはいつも怒っている…まあ、これはちょっとわかる。うさぎという動物の特性(被食性、食べられてしまう側ということです)として、常に警戒して(おびえて)暮らしている。12年間人間としか生活してきたことがないのに(本人は)命の危険を感じるような恐怖を度々感じるのか、お世話をしようと近寄られるたびに、「怒り」(喉を鳴らす、ドンと足をふむ)でマイナス感情を表す。(まあ、あんまりお利口ではないのでね、そこも可愛いんですけど)


いつも怒っているおじさんがいる。おばさんも。ああ、若い子もいるか。めんどくせえ、じじいだなあ、と放っておけばいいのだが、そうもいかないこともある。会社の偉い人だったり、取引先の相手だったり、家族だったり。

特に私は相手の感情にぶんぶん振り回されるタイプで、どうにかして場を収めなくてはとか、なんとか解決策を提示しなくてはと、アセアセ、わちゃわちゃしてしまう。そして、大抵、ごめんなさい、私がわるうございました、なんとかいたしますので少々お時間をとかなんとかいって逃げ出すというのがパターンだ。

まったく、ダメである。何も解決しないし、誰も幸せにしていない。なにより自分が大嫌いになって凹む。


歳をとったせいか、ちょっと考えてみられるようになった。「この人は何が悲しかったんだろう?何が辛かったんだろう?」

そう考えると、すこしだけ見方が変わる。ごめんなさいの言い方もだ。

この商品のこういうところに期待して、きっとこういうことを実現してくれると思っていたのにそれが裏切られて悲しかった

自分の母親はいつもこういう心遣いをしてくれていてそれが当たり前だと思っているのに、そうしてもらえなくて寂しかった

精神的に疲れていて、小さなことでも気になってしかたない

要するに、ここで怒った事象がどう変わるかとか、自分の態度がどうだったからは本質的な問題ではいということだ。怒ってる人は実はその場のことや人を「悲しんだり」「寂しく思ったり」してるわけではないことが多いから。



その人の「怒り」をどう収めてもらうのかは、その人自身の問題だ。最初の感情まですぐに理解するのは難しいし、それを解決するのはさらに困難だ。お母さんがどうだったかとか、その人が疲れているかどうかまでは、私が背負う必要はない(商品や仕事のミスについてはもちろん修復と謝罪が必要だけどね)。


とにかく、ふりまわされないこと。あのおっさんはあたしに怒ってるんじゃなくて、母ちゃん寂しいよって泣いてるんだと思ったら、自分を責める気も失せる。


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