『いみいみ』10月30日12:00の回のご感想

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お芝居を見て私がまず感じたことは 「これは"私たち"にとっての、これまでに受けてきた透明な暴力/抑圧とこれから直面する葛藤を描いたもの」 ということでした。 
私たちに向けられたもの、と解釈したのはこのお芝居を観た私自身が現在22歳の女だからです。私はこの作品は、「私たち」が主人公で「私たち」へのメッセージなのだと受け取りました。 

物語の序盤、主人公を演じる葭本様が自分の身体を辿りながら「つま先はつま先、乳房は乳房」などと部位の名称を口にします。しかし「ふくらはぎはふくらはぎ」「乳房は乳房」であって「私」とは言いません。 街を歩き「広告の女」を見つけても「広告の女は広告の女」であって「その人」とは呼ばれません。 
このお芝居を観ていた私はそれがとても虚しく、悲しい気持ちになったのですが、最後まで観ることで、それこそがこの作品の「いみ」なのだと受け取りました。 

同語反復を通じて自分を、世界をラベリング/カテゴライズし葛藤を繰り返す主人公…… 
葛藤の末、クライマックスのシーンでの「私の言葉は私の言葉」 「あなたは私を演じなくていい」 「私はあなたを演じなくていい」 と叫ばれた言葉がとても救いになりました。 最後に「私は私」という言葉を聞くことが出来て良かったです。 

そして、作品の中で特に心に残っている部分が2点あります。ひとつは葭本様の笑顔です。 彼の前や、バイト中での「愛想の良い女」「当たり障りのない存在」でいる為の取り繕うような悲痛な笑顔に、胸を締め付けられました。 私には、苦悶の表情よりも取り繕うための笑顔こそがSOSのサインとして映りました。 
もうひとつは、SNSでかわいい動物の動画を見るシーンと猫を触ろうとするシーンです。 主人公がかわいい動物に対して「庇護欲を掻き立てられる」「触り心地の良さそうな肌」などと評した言葉たちは、女が日常のなかで求められがちなものなのではないかと感じました。 駅の中で男に声をかけられるシーンと主人公が可愛らしい猫に近づいて逃げられるシーンもまた、対比になっているように感じました。 私にとっては「女は少なからず、SNSに投稿されている可愛い動物たちのように、愛玩物としての役割を求められがちなのかもしれない」と気付かされたシーンでした。 

普段はあまりお芝居を見ることがなく、観劇に関して完全に素人で取り留めのない文章になってしまいましたが、感じたことをできる限り書きました。 一部妄想のような解釈になってしまったところもありますが、私がこの作品を観て感じたことです。 今日この歳で、一人の人間として、女としてこの作品を観ることが出来て良かったです。 この作品をきっかけに、自分自身も私が私である「いみ」をゆっくり考えてみたいと思います。 心に残る作品を、ありがとうございました。

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