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実録。離活日記「幸せになる為の離婚」  Vol.1 離婚って何だ?

1.離活Start !
令和○年5月、コロナ禍がおさまり初めていたとは言え、まだ外出にはマスクは必需品で外出も控え目にしていたゴールデンウィークの中日に連休前から始まっていた出張から家に帰って来た私は普段とは違う雰囲気を感じつついつもの通り出張の荷物を抱えて家に入った。夕方近くではあったが、まだ外も明るく室内灯をつけなくても十分な時間帯ではあったが、玄関に入った瞬間に家が留守だとわかりそのままリビングに荷物を持って入った。そこでリビングのテーブルの上に置いてある1枚の便箋に気付き手に取ると「二人の子供と共に家を出る。」「(妻側の)家族は関係無いので家族の所には行かないでほしい。」旨の短い文章が書いてあり、そこで人気の無い我が家の理由が理解出来ました。
最初は、やはり子供達がいなくなった事に動揺し妻や妻の両親を責める様な事を考えていましたが、一晩寝て冷静に考える事が出来、晴れて兼ねてから臨んでいた離婚活動が出来る!と私自身決心しました。
これが、僕の離活のスタートでした。

2.離活に至るまで
私は、現在50代半ばでエンジニアをしております。国内外に顧客がいる為、海外含め比較的出張は多い方だと思います。
元妻とは20数年前にその仕事を通じて知り合い、付き合いを始めたばかりの時に地方オフィスへの転勤が決まり、その機会に結婚をしお互いの出身地から離れた場所で結婚生活を始めました。元妻と私の年齢は10歳離れておりますが、物怖じしない元妻の性格のお陰か結婚当初は年齢差もさほど感じる事無く知らない土地での二人だけの生活を楽しんでおりました。


私が勤めている業界は、外資系企業も多く参入しており自分自身のスキルや収入を上げる為に転職者が多いのも特徴で私も何度か転職をしてきました。
しかし、元々自分が決めた事に対して固守する性格の元妻は、いくら収入が上がろうとも彼女にとっては「転職」事態が悪である為、喜びよりも非難の方が多くその頃から少しづつ夫婦間の歯車が噛み合わなくなってきました。

二人目の子供が出来、私の仕事も収入も落ち着いてきたのを機に妻の実家の近くに
小さいながらも家を建てる事となり、子供達の将来も考え友人関係作りや教育をし易い環境で生活を営む事となりました。
ただ、この頃から更に夫婦間の蟠りが深くなってきました。

元々家事全般的に苦手な元妻は、近所の両親に頼る事が多くなり私抜きで妻側の家族と食事に行ったり、時には旅行にも出掛けたりし町内活動含めて家庭の事をしなくなり、汚れたままの食器がシンクに重なったり洗濯物は床に置いてあったりと言う事が日常茶飯事になり、何度もその事で喧嘩をする様になりました。
その頃になると流石の私も精神的にかなり疲弊し、「あの汚い妻のいる家に帰りたくない。」と元々好きだったお酒を求めて仕事に絡めて呑んだり、ひとりでカウンターで呑んだり、本当に「嫌な」気持ちの時はキャバクラに行ったりして少しでも家にいる時間を少なくする事をしてました。
今となっては。その当時の私の行動も妻からしたら当然離婚の原因の一つであると捉えられると言う事に気がつくのですが、当時はそれ以上に「家に帰りたくない」気持ちが勝ってました。
この様な気持ちのままお互いに子供達の事を考えていたのだと思いますが、お互いに真の気持ちを抑えつつ数年間暮らしてきましたが、下の子が小学校高学年に差し掛かる年齢に達した時に普段通りに埃が溜り放題のキッチンを毎週末の私の仕事として掃除してひと段落していた時に、自分のしている事が家の劣化に繋がり、子供達に埃まみれのお茶碗で食事をさせている事をただ単に正当化していつもの調子でリビングに入って来た元妻に私は「もういい加減にしてくれ、僕は〇〇ちゃんにこの家に住んで欲しくない。出て行ってほしい。」とゆっくりと訴える様に伝えました。
すると彼女は、何も言わずに自分の当面の荷物だけ持って、その時に家にいた娘に別れを告げて、私には「娘の髪の毛は今後あなたがきちんとやってあげてね!」と言い放って家を出て行きました。
おそらく彼女の中では既にいつか家を出る事を決めていたのだと思いました。

つづく

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