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黛灰という人物の色 教室の隅の色

7/25:ちょっとだけ追記しました。

この記事は、今までの記事と違い、
1オタクの隙あらば自分語りの面が強いです。
考察もありません。
自分語りの文章が苦手な方の閲覧はおススメしません。


推しが活動終了する。

このnoteの記事一覧を見れば丸わかりだろうが、私の推しは黛灰だ。デビュー初期から推して3年になる。そんな彼が活動終了を発表した。そして今現在、残り時間はあと4日だ。

私は、彼に対して、とてつもない大きさの憧れと、たくさんの感謝を持っている。ただ、私はファンレターが書けない。本当に書けない。対大衆に送る文章は臆せずこうやって書けるのに、対個人になった瞬間ありえないほど文章が下手くそになる。どんなに書いても「何かが違う」「これは憧れの人に送っていい文章じゃない。」「個人的すぎる。」という文章になってしまうのだ。しかも重い。すごい重い。だから、残り時間が迫っている今も送れないし、たぶん手紙の期限がきても送れないと思う。そしてそんな風に「みんなと同じこと」ができない、推しに直接感謝の言葉すら送れない、ひどく冷たい自分を何回も怨む。

先日、ンゴ灰那による「カエラズノケン ~狂気山脈第三次登山隊の顛末~」というシナリオのTRPG配信が行われた。その中で、「あぁ、この人だから推したんだ。」と思ったシーンがあった。それを踏まえて、「黛の色」を私なりに遺したい。ファンレターの代わりに、自分は黛灰のどういうところが好きなのかを書き残したい。この記事はそういう意図だ。

(以下、「カエラズノケン ~狂気山脈第三次登山隊の顛末~」のシナリオ微ネタバレおよび「カエラズノケン ~狂気ンゴ灰那山脈第三次登山隊の顛末~」のネタバレがあります。シナリオの根幹のネタバレはありませんが、一切情報を入れたくないという方、配信のネタバレされたくないという方は、読むのをおすすめしません。)

7/25追記:もし「カエラズノケン」のネタバレが見れないから見ない!という方がいたら、このアーカイブに言いたいことが全部詰まっていたので、心が元気な時に見てください。









黛と一緒に第三次登山隊として歩んでいた「プレイヤーキャラクター」は「カドリー・チェイス」という人だ。

公式紹介文曰く「プライドが高く、自信家でナルシスト」。自己紹介で「一流のアルピニストよ!」と言い放った通り、前作「狂気山脈」の「コージー・オスコー」を思わせる人物だ。

そんなカドリーは、隊長デナリーが死にかけたことで、自分の過去と感情を吐露する。カドリーは常々「女性扱い」されることを嫌っていた。それは、過去記者や他の登山家たちに「『女性が』登れるなんて」「『女性なのに』登れるなんて」という枕詞を言われることに起因していた。
しかし、それだけではなかった。そのさらに根底にあったのは、カドリーの過去だった。
カドリーは過去、女性とお付き合いをしていた。しかし、父には猛反対された。それをきっかけに父と母は離婚し、カドリーは家を追い出された。その時縋っていたお付き合いしていた女性も「そんなつもりではなかった」と言った。そんな絶望を山で乗り越え、山に登ることを選んでも、世間の評価は「女性」に寄る。カドリーはそれを「別に女性は関係ないのに」と言う。

私が、黛灰を好きである理由、誰かが黛灰を拠り所にしている理由。私は「ここ」にそれが集約されていると感じた。

後語りにて黛はカドリーのことを「ダブスタ性のある人物」と言った。「自分に対するラベリングは嫌うのに、他者に対しては『男だから』『子供だから』『日本人だから』というラベリングをする人物である」と。

私が黛灰のことを好きなのにはここがある。驚くほどのキャラクター設計のリアリティさ、緻密さ。そして、そのような人を「最後のTRPGに連れていくならこんな人が良い」と選択する。だからこの人を推したのだ。

黛は、結構「人が扱いにくい話題」について、丁寧に、しかししっかりと切り込んで話してくれることが多い。黛自身が不登校であったこと、インターネットという多様性にあふれた世界に人生のほとんどの時間入っていたことが、黛の広い考え方、話題の拾い方に表れていると感じる。
私は、そのような話題を明るく励ますように言う人もいるだろうが、黛ほど「暗闇のなかで寄り添うような」意見を出す人はいないんじゃないか、と感じている。
自分たちが感じている悩み、苦しみ。それが「普通」とはちょっと違っていて、でも誰にも話せない。「芸能人」が明るく輝いている場所では、こんな悩みなんて掻き消えてしまうんだろうな、だれもこんな悩みを持ったことはないんだろうな、というくらい明るい世界。そんな中に黛という存在がいたことが、私にとっては何よりの救いだった。
自分みたいな悩みを持った人が、第一線で活躍している。自分たちの話を理解してくれる人間が、あの明るい世界にいる。それだけで、自分自身が世界にいてもいいような気がする人間がどれだけ多かったか。あの湿度の高い雑談の世界で、あの教室の隅っこの暗い色の世界で。でもそんな色でさえも「虹」の一色だった。「多様性」の一つだった。その事実が何よりの救いだった。

7/25追記:「彼の色」の代名詞みたいな配信が、こんなギリギリに生まれた。ぼくが言いたかったことがここに全部ある。かもしれない。


正直言うと、私にもカドリーのような一面はあると感じている。私は、誰かにカテゴライズされるのが苦手だ。「視聴者群」の枠、「性別」という枠、「性格」という枠、「見た目」という枠。そういう枠にカテゴライズされた上で接されることがあまり得意ではない。
しかし、そうやって強くカテゴライズされることを拒む、ということは、誰よりも「カテゴライズ」に敏感である、また、そういう「カテゴライズ」の中で育ってきた、という証拠でもある。実際、そういうカテゴライズのことが苦手だが、確かに「男性だから」「女性だから」「この人はこういう見た目だから」と意識してしまっていることはある。いくら変えたいと思っていても、やっぱり中々意識というのは変えられないもので、気づいて後悔してから意識を変えようとしていることが多々ある。

黛は、施設の女の子が告白してくることに対して「年上への憧れを恋心と勘違いしているのではないか。だからそうやって話してお断りしている。」と話している。カドリーの「年上の女性への恋心」というのは、「年上の女性への憧れ」とも置き換えられるだろう。そうやって、「年齢を経て性別への捉え方が変わっていくこと」「矛盾を抱えながら生きていること」、チャット欄の言葉を借りるなら、「自己矛盾がリアル」「未熟っぽくて人間っぽい」。複雑で色々な悩みを抱え込んだ「カドリー・チェイス」という人を作り上げるからこそ、そういうところを見ているうえで拾い上げてくれるからこそ、黛灰を応援したくなったのだ。



私は、黛灰がこの世界で観測できなくなった時、どうなるのだろうか。この世界にどうやって居場所を見つけようか。「虹」から「あの色」がなくなったこの電子の海で、自分の居場所を見つけるあてどない旅をしようと思う。
私は、「バーチャル朗読劇のつくり方」で、新しい憧れを見つけた。だから、黛から勝手にもらったその憧れをどうやって追いかけるかを模索してみようと思う。
今度は、自分自身で自分の居場所が、作れますように。


うさぎ

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