いままでとこれから🍒2024夏 「my bedroom music」レコーディングを終えて
先週、3年かかったMY BLUE MoMENTのアルバムのレコーディングが終わった💌
ヤッフーっっっっっーーー🥰
小さな部屋でひとりで立ち上げた、MY BLUE MoMENT。
たくさんの方に支えられて、3年間駆け抜け、なんとか10曲入りのアルバムが出来そうです。
でもまだすこし、手直しもしたいなと思ってる。
今できる全部を出して、妥協せずに仕上げたい。
長かったような?
短かったような?
いややっぱり、短かったな🍒
節目なので、音楽人生を振り返ってみる。
🩷
10代は、思い出せないくらい孤独で、小さな部屋で毎晩ただただ作詞作曲を1人でしてた。
楽器も上手に弾けないから、頭の中に音楽を記憶して、歌詞をノートに書き溜めまくっていた。
(その時のことも曲にしてるから、次作のアルバムで描きたい。)
🩷
19歳で初めて、MTR(今でいうDTMのような機械)で録った「どんどん」を自分の耳で聴いて、自分の音楽が残るってことに感動した。
「どんどん」は、運良く、J waveのチャットモンチーのラジオで取り上げてもらえた。
自分の音楽が電波にのってることが、不思議で、たまらなく嬉しかった。
当時の番組ディレクターさんに「お耳馴染みの良い声」と褒めてもらって、初めて「自分の声って特殊?」と気づいた。
今は「f分の1のゆらぎ」などと言ってもらえるけど、それまで20年間、ほぼ無自覚で生きていたので目から鱗だった。笑
そして、当時、2週間に1作、曲を書いては財津和夫先生にみてもらっていたんだけど、「どんどん」は、財津先生に唯一褒めてもらえた曲。
「大人のお世話にならないで。君の確かに光る才能が輝きを失わないように、自分で磨きなさい」と。
(「どんどん」はニューアルバムの「my bedroom music」にも収録します。)
🩷
22-3歳は、とあるバンドのサポートベースコーラスとして、人生で1番、バンドマンって生活をしてた。
刺激的で、次々と出会いが舞い込む日々だった。
憧れの人と話した。
憧れのステージに立った。
自分に「ファン」がついていった。
「ありがとう」「頑張ってね」ってたくさん言ってもらえた。私が言いたいのに。
お手紙をもらったり、慣れないサインを書いたり、一緒に写真を撮ったり
「まるでミュージシャンみたいだな〜」と思っていた。笑
私たちも、受け取る人たちも
どちらもしあわせ。
こんなにも音楽の世界は美しいんだって身をもって体感した。
こんなに純粋な美しい世界を
わたしは他に知りません。
ベースはほぼ未経験だったから
一生懸命練習した。
バイトを3つ4つは掛け持ちした。
家がないときもあった。
横になって寝られない日もあった。
でもぜんぜん、平気だった🌻
悔しくてたまらなくて
涙がこぼれる日もあった。
傷ついて胸が傷む日もあった。
でも「諦めない」「辞めない」「どんな時も笑顔でいる」って決めて、守った🌙
そして完走した。
今でも当時のつながりは続いていて
わたしの人生の宝物。
北海道では、今のマネージャー(見習い)ちゃんにも出会った🍞
とても心強い、常に味方で居てくれる
かけがえのない存在💝
🩷
それから、「この後、どうしよう?」
と思ってたところ
フタミくんを拾って、成り行きでkotatsv(コタツ:以前やってたエレクトロ)を結成した。
軽い気持ちでサウンドクラウドにUPしたサンプリング曲の評判が良くて、オリジナル曲を作るようになった。
すると、イベントや、学園祭のゲストに呼んでもらって、自信がついた。
「わたしの書く曲って、良いのかも?」
って思うようになった。
「作詞とメロディと歌だけは、極めたい」って音楽人生の指針が決まっていった時期だと思う。
🩷
25歳で、初めてkotatsvで自主企画ライブをした。
20人来たらいいね、という計算だったけど
100人近く来場してくれた。
そのイベントで出会った仲間たちとは今も交流があるし、ORKLさんにはMBMでもアレンジャーをしてもらってる。
半年かけて準備して、結構大掛かりだったけど
やってよかった🌸
心を込めれば、伝わる。
あの日はもう決して戻らないけど、色んな人に「あの日は最高だった!」って言ってもらえるから、心に残ってくれているんだと思う。
ライブは、終わっても終わりじゃない💌
🩷
その直後、2020年年明け。
コロナ禍に突入した。
出来ることやるぞって、
制作に勤しんだ。
そして、26歳でkotatsvのミニアルバム「NPH」を完成させた。
今聴くとさんざんな出来だけど、当時の私の精一杯だった。
それでも、「好き」と聴いてくれた人たちが居たから、私は今ソロでアルバムを取り終えることが出来た。
リスナーさんたちには、ほんとうに、ほんとうに、感謝してる。
自分で自分を信じられなくなったとき、
作品を待ってくれてる人々の存在はとても支えになる。
「NPH」はラジオ番組にも取り上げてもらって、じっくりインタビューも受けた。
💜
その後、加速するように、もっともっと音楽が作りたくなった。
思い切り自由に遊べる場所が欲しくなった。
「どうしたらいいんだろう?」と当時のわたしは日々考えていた。
何かを作り終えると、途端に必ず新しい何かを作りたくなる。
それも、自分でも想像がつかないようなものを作ってみたくなる。
「わたしの呼吸を繋いだら、どこへ行けるの?」
💙
そして、27歳の頃に「ひとりでアルバム作る」って決めた。
決めた日のことを覚えてる。
8畳の1Kの部屋で、
白い部屋に似合わない茶色い天板のコタツで、
レコーディングスタジオや写真家さんや作曲家さんたちに、ドキドキしながらメールを打った💌
「相手にしてもらえるわけがない」と思ってたけど、ダメ元で「こんなことがしたいです。手伝ってください。」とお願いした。
すると、どこからも、協力的な優しい返事が返ってきた。
「誰しも誰かに探されている、誰しも誰かを待ってるんだ」と実感した瞬間だった。
💙
それから、MVを撮ることになって、スタイリストさんやヘアメイクさんにも自分でアポを取った。
やっぱり優しくて、あたたかかった。
「なんて素敵なことを考えてるの!」って
全力で手伝ってくれた。
私の夢の一つだった。
22-23歳でまわったツアー先で出会った才能たちを結集させること。
ひとりひとりが、やりたいことを自由に表現すること。
それがMY BLUE MoMENTの基盤になってる。
MY BLUE MoMENTには私の夢が詰まってる。
MBMに関わったスタッフさんたちが「あいかちゃんとお仕事した」ってことを、いつまでも誇れる人でありたいと思う。
💙
MBMは滑り出しから素晴らしかったけど、
年月を経るごとにますます成熟していってる。
楽曲は、エンジニアの大久保さんがDolby Atmosという最新システムで仕上げてくれている。
FPVドローンを取り入れたMVも現在制作中。
パイロットは18歳の中元くん。
若い感性でやりたい放題して欲しい✨
日本の文化を世界に提示すべく、
衣装に和装を取り入れたり...👘
最新シングルのジャケットには
わたしがずっとファンだった
原宿でかつてカルト的な支持を得た(というか、ファンは閉店後も再開を心待ちにし続けている...わたしもその1人)古着屋さんthe Virgin Maryで出会った、はなさんのイラストも🌸
💙
わたしの伝え方がまだへたっぴだから
伝わってないと思うんだけど
MBMでは一曲一曲に
つよくて優しいあったかいメッセージがある。
丁寧に咀嚼して伝えたくて
いろいろなアプローチを試みてる。
消費の時代だけど
一曲一曲をどうか深く味わってくれたら嬉しい。
あえて時代に逆行してるわけではないけれど
わたしは、これしかできない。
流行りの曲は作れない。
今、欲しい音や言葉じゃないかもしれない。
ただ、年月が経っても
色褪せないものを作る。
どんな時代でも、
私たちの姿勢は変わらない。
私たちは、好きだから
表現しないと生きていけないから
だからこの世界に身を置いてる。
わたしたちのフィルターを通したら
こんな風に世界が見えてる
わたしたちは
どんな時にも希望を忘れない
いつも前を向いてる
だから、作り続けてる🎁
MBMには
わたしたちの想いが詰まってる
「あなたがしあわせでありますように」
前に進めない日
孤独でさみしい夜
涙が出てしまう帰り道
頭の片隅に置いてあった
MBMのことを思い出して
ひっぱり出して聴いてくれたら嬉しい🌙
きっと寄り添えるので
💙
わたしはこれからも
今までと同じように
いや、今まで以上に真摯に
粛々と音楽を作ります
どんな時代にも
音楽はあり続けました
人の心がある限り
そこに音楽はあるものだと思う
目に見えない
不思議な魔法みたいな🪄
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