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【戦いの原則】比島侵攻作戦に見る不明瞭な目標設定の顛末【目標の原則】

【目 標】
戦いの究極の目的は、敵の戦意を破砕して戦勝を獲得するにある。
戦いにおいては、目的に対して決定的な意義を有し、具体的かつ達成可能な目標を確立し、その達成を追求することが極めて重要である。

【フィリピン島侵攻作戦(大東亜戦争1941年)】

概 要


昭和16(1941)年12月8日の太平洋戦争勃発とともに日本軍はフィリピンの連合国軍と戦闘を開始、1942年6月9日までに孤立した部隊を除き連合国軍の全部隊が降伏して戦闘は終了した戦いである。※(A=Army=軍、D=Division=師団)

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(赤→日本軍 黒→米比軍)
昭和16年12月8日~12日の間、日本軍はルソン島に対する14A先遣部隊の上陸及び航空撃滅戦を実施し、A主力リンガエン湾に上陸、一部はラモン湾に上陸し、南北挟撃の形でマニラに向かい進撃この間、マッカーサ―の米比軍主力は逐次バターン半島に後退しつつあった。

14Aはこれを攻撃するかマニラ攻略かの判断に迷ったが、当初の計画通りマニラ攻略に決し、昭和17年1月2日同地を占領

しかしその間、米比軍主力(約9万)がバターンに縦深に渡る陣地を構成するのを許し、バターン半島攻略に半年の日時と、多大な損害を要する事となる。

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(バターン半島における米比軍の配置)

この結果、14Aが比島侵攻作戦において受けた損害は戦死傷11,225名というものであった。奇しくも米軍がガダルカナル島で本格的反攻に転じる僅か3ヶ月前の事であった。

↓ 教 訓

不明確な目標設定


大本営は14Aに対する作戦目標を、マニラ占領か米比軍の撃破かを不明確にしていた。

バターン攻略の目標が確立されていたならば、マニラ占領に拘泥することなく機を失せず米比軍を追尾して、準備未完のままの戦闘を強要し、同地(バターン)を占領・敵を補足撃滅する事が可能であったろう。

バターン半島撤退を許した理由


大本営は米比軍との決戦をマニラ市周辺地区に予想しており、米比軍の撃破はマニラ占領の片手間で可能であると判断していた。

しかし、バターン半島の縦深に渡る陣地構成が可能な地域的特性や、バターン半島沖合のコレヒドール島要塞を有する戦略的意義については見落とされていた。

また、米比軍の戦力も過少に評価していた。

そもそも開戦当事の14Aの戦力は本来3コDの所、1コD抽出された2コD基幹となっていた。はなから米比軍を補足撃滅する戦力が無かったとも言えよう。

現場指揮官の左遷

日本軍は、第14軍司令官本間雅晴中将と参謀長前田正実中将を、バターン半島での拙戦を理由に予備役に編入(左遷)した。大本営は最後まで「目標の不明確」や「状況判断誤り」を顧みることは無かった。

米軍が貴重な戦訓としてマッカーサ―及び他と研究し、対日戦勝に向けた原動力としたのとは対照的である。

考察・雑記

目標の原則に「具体的かつ達成可能な目標を確立」とあるが、目標の確立に資する情報は重要である。
収集された各情報を整理・精査して、各種の至当な見積もりを経て目標を確立しなければならない。

まともに働いていれば誰しも経験があるだろう。一次報告を基に安易な行動を起こして失敗したり、計画の修正を強いられたり。

比島侵攻作戦の問題だったのは、大本営が敵を過少に評価し、片手間で撃滅が可能であるという楽観視した状況判断にありと思料する。
事前に行われた兵ぎ演習においても14A側から大本営に対し「バターン方面への米比軍退避の可能性」に関して質問がなされているが、あやふやな答えであったという。

まさに日本的であり、今現在も形式ばった意味のない会議に打ち込むのは、もはや伝統であろう。さらに左遷もセットでは笑いが出るというものである。

安易な妥協や不明瞭さの連続は、明確な目標が確立できず、無用な出血ばかり強いられるという、いい例である。

勝っている時こそ慎重に。

以 上

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