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アサルトリリィこじつけ俳句鑑賞会
詭弁フェイズ
小説、アニメ、ゲーム。物語に触れて心が揺り動かされたとき、人に見せないまでも、創作の世界に飛び込みたいと思うのが人の心というもの。一方で、手間がかかる、気恥ずかしい、他人のを見て満足してしまう等の理由で結局筆を取らずに終わるのもまた人の心というもの。
かくいうわたしも国語の授業以外で文を書いたのは何時が最後だったかちょっと思い出せない。
筆をベキベキにへし折ったわたし(あるいはあなた達)ではあるが、今、なんだかアサルトリリィ二次創作に関わりたい気分である。但し、なるべく文を創らずに感傷を吐き出したい。しかし、そんな都合の良い方法があるのだろうか?そう、あるのである。
日本の文化「俳句」は詠むだけでなく読んだ解釈も含めて創作文化だと看做すのが一般的である。実際に、鑑賞した高浜虚子の解釈も評価の構成要素になっている芝不器男の句などが存在する。
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
そういった訳で、既存の句に対して「あたかもアサルトリリィの世界を詠んだ句であるかのように解釈する」ことで、この感傷を発散することにした。
しかし、アサルトリリィと無関係な句を好き勝手好き自由に解釈することなど果たして赦されるのだろうか?
学校の国語の授業だと、文学作品を読ませて、「このシーンでの登場人物の心情を答えなさい」といった読解の問題を出します。
(中略)
しかし、俳句は「どのように解釈してもOK。自由に鑑賞して良い」ものです。
今「どのように解釈してもOK」と申したか。吐いた唾、もはや呑めぬと心得よ。
俳句フェイズ
夏草や兵どもが夢の跡
日本で最も有名で、国語の授業でしゃぶり尽くされたこの句も、アサルトリリィ世界なら新しい解釈の余地が残されている。
自然の静かな清々しさと裏腹に切なさも同居した美しい句である。
この地を満たしていた人々の熱気。それがあったことを知っているから、それが失われてしまったことを強く感じるから、こんなにも感情が揺さぶられて…
この地にも、人々を守ろうとした多くのリリィが居た。しかし、今やヒュージの手に墜ちてしまい人間は誰も居ない。自然はそれをただ見守るだけ。そんな陥落指定地域の儚さが漂っている。
毛虫焼く火幽し我に暮鐘鳴る
少し解説すると、幽しは今にも消え入りそうな弱々しい様のこと、暮鐘は夕暮れを知らせる為に鳴らされる鐘のことである。ちなみに毛虫は夏の季語である。
俳句には「見立て」があるので、書かれているものが書かれている通りであるとは限らない。毛虫焼くが毛虫駆除とは限らないのである。では、何を駆除しているのか?そう、ヒュージである。
この句は、出撃したリリィが、最後のヒュージを討伐し、夕方を伝えるチャイムを聞きながら疲労感と達成感に包まれて帰路に着くシーンを思わせる。
ヒュージの危機は去り、一日の終わりを告げる鐘がお疲れ様と労る。快い落ち着きを持つ句である。
失ひし片翅捜し蝶凍つる
言うまでも無く、片翅とは姉妹やパートナーのことを表している。こういった対を成すものは疑似姉妹の比喩としてよく使われる(要出典)。しかし、この句では、おそらく姉妹を亡くしてしまったリリィが、現実を受け止めきれず力尽きかけた蝶のようにふらふらと探し回っているのであろう。
片翅という言葉だけでも二つで一つだったものが離れ離れになってしまった悲しみが伝わってくるが、失ひし片翅とすることで、より容赦の無い悲哀と、それを探すリリィへの同情を掻き立てられる。蝶凍つるは、そんな悲哀によって閉ざされてしまった心(あるいは末路)をこれ以上なく見事に言い表している。喜怒哀楽暗の暗黒のところによく染み渡る。
しかし、この凍蝶という季語。一対の羽が疑似姉妹を思わせるところといい、儚くも美しいところといい、実にアサルトリリィ適正が高い季語である。もう少し凍蝶が使われた句を調べてみようではないか。
凍蝶のあたためてゐるマリア像
女子校らしさが出てきた
蝶凍つる覚悟の翅をたたみけり
戦場で死の瀬戸際で詠みたい句
蝶凍てて過去も未来も意のままに
メリーバッドエンドだ!
どう考えても現世のしがらみから解き放たれて、安らかな顔で息を引き取るシーンじゃないか!
喜怒哀楽暗の暗黒が唸る!唸りを上げる!
総評:凍蝶は暗黒百合に向いている
U-S, W. M.
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