怨霊大戦 第3話
突然、子供の頃に見た絵本の挿絵のイメージが、橘の頭の中でそいつとつながった。
――狼、男、人狼――?
眼前の存在が童話や小説の中で見かける空想の産物であることに気づき、橘は安堵した。
――ああ、これはきっと夢だ。悪い夢なんだ。目が覚めれば元の生活に戻り、いつもの妻の笑顔にも会える――
突然、バアンという音と共に、玄関の扉が蹴り破られた。
家に飛び込んで来たのは、黒スーツに身を包んだ男女の二人組だった。
女は素早く拳銃を取り出し、怪物に向けて構えた。
男は腰に差した刀の柄に片手を添えている。
女が銃と反対側の手を使って小さな紙片を懐から取り出し、顔の前でシュシュッと軽く振った。
――抜刀、長野――
女のつぶやきと同時に、紙片はめらめらと青い炎を上げ一瞬で燃え尽きた。炎からもれた光の粒子が男の方に流れ、体をつつみ込む。
男が腰の刀の柄を軽くにぎった、と思った次の瞬間、人狼の左の手首がごろり、と床に転がった。
一瞬遅れて血しぶきが舞う。
――グォオオァーッ
人狼の悲鳴が闇夜に響き渡る。
居合斬りだった。刀を鞘から一気に抜き放ち、その勢いのまま相手に一撃を与える技だ。その一連の動きは、剣道でつちかった橘の動体視力を持ってしても、ぎりぎりその一部がとらえられるかどうかの速さだった。
刀の切っ先が描く放物線めいた軌跡は、刹那的なまでに美しかった。刃が肉をつらぬき鮮血が噴き上げるまでの一瞬が、橘の目にはまるで異次元の出来事のように映った。
橘は今の自分の状況も忘れて、ただその剣技に見ほれていた。
左手を失った人狼が、手首から血を流しながら激しく荒れ狂い始める。
テーブルがひっくり返り食器棚が倒れ、おそろいのマグカップが粉々に割れた。
橘のそばに子供用の小さなプラコップが転がってきた。コップには熊のキャラクターがプリントされている。「まだ気が早いわよ」と妻に笑われながら橘が選んだものだ。橘の鼻の奥で、熱くて塩っぱい何かがあふれた。
――ううっ――――ううぅぅえっ――
どこか遠くから嗚咽の声が響いてくる。しばらくの間、橘はその声が自分自身からもれていることに気づかなかった。
床についた手が生暖かいものでぬれている。手のひらを上げてみると赤黒く染まっていた。床には血だまりができている。どこからか出血しているようだ。壁を背にして尻もちをついていた橘の上半身がずるずると床のほうにかたむいていく。
――抜刀、伊庭――
女の声がした。紙片から放たれた青い光が再び男をつつんだ。
男は今度は、刀を抜いて正眼に構えた。
――はあぁぁっ!――
裂帛の気合と共に男は勢いよく前へと踏み込み、一瞬で人狼との距離を縮めた。縮地と呼ばれる技法だった。正眼の構えから瞬時の迷いもなく人狼に向けて刀を振り下ろす。
しかし人狼は、今までと打って変わった俊敏さを見せて、その攻撃を皮一枚で回避した。
次の一撃を放とうと身構えた男の前に、あろうことか人狼は橘の妻の身体を投げてよこした。
男が投げられた身体をかわすため、半歩右へと動く。
ガシャアアン、とガラスが割れる音が響き渡り、人狼は割れた窓から外へとおどり出ていった。
――ヤツは俺が追う――
男がそう言い捨て、破れた窓の方へ向かおうとしたが、女の方が彼を止めた。
――待って。今のあなたじゃ私のサポートがないと――
――じゃあ、君も一緒に来い――
――無理よ。この人、まだ生きてる。応急手当と救急車を――
――放っておけばいい。そのうち死ぬ――
パシン、と頬を叩く音が響いた。橘がのろのろとそちらに目を上げると、女が右手を振り上げているのが視界に入った。
左頬を押さえている男から、殺気のような何かが急速に去っていくのを感じた気がした。女は携帯を取り出すと、どこかに連絡を取り始めた。
橘の意識はそこで途切れた――。
橘が目を覚ましたのは、病院の個室のベッドの上だった。
体中の痛みと、グルグルに巻かれた包帯のせいであれが夢ではなかったことをまざまざと思い知らされた。
しかし痛み以外の彼の五感には奇妙に現実味がなかった。医者から何を聞いても周囲の何を見ても薄皮二枚ほどはさんだように感じられ、全てが他人事にしか思えなかった。
――残念ですが――
目の前の医者の口が金魚のようにパクパク動いて、何かをしゃべっている。
――奥さんとお子さんは、助かりませんでした――
タスカリマセンデシタ。
そんなことはとうにわかっていた。とうの昔に。あの夜に。
橘が目覚めてから一週間後、あのときの男女が彼の病室を訪れた。二人ともあの日と同じ黒のスーツに身をつつんでいた。
男は短髪で、刑事だと言われても信じてしまうほど鋭い目つきを持っていた。女はストレートの黒髪をショートボブにして細いフレームの眼鏡をかけている。
あらためて間近で見ると、二人とも荒事には似つかわしくないととのった顔立ちをしていた。それぞれの顔の作りに似ている部分はなかったが、二人の放つ空気には共通のにおいが感じられた。
男は八十神響也と名乗り、女は間堂桐子と名乗った。
だが今の橘にとって、他人の名前は意味を持たない単なる音の羅列でしかなかった。聞き終わった次の瞬間にはもう、橘の頭の中からその音はあとかたも残さず飛び去っていた。
女はあのときの非礼をわび、男は人狼を取り逃がしてしまったことをわびた。
橘の身体の状態などの当たりさわりのない会話が終わったとき、女が病室の扉に内側から鍵をかけた。
「ここから先は、他言無用でお願いします」と、女が表情を変えずに言った。
橘がうなずくのを待つと、彼女は立ったままゆっくりと語り始めた。
彼女の話によれば、彼らは厚労省内部の「ある組織」の係官であるという。組織については詳しく話せないものの、妖魔や魍魎専門の駆逐部隊だという。
橘も以前からそういった組織があるといううわさは耳にしていたが、どうせ都市伝説だろうと思っていた。それが実在した。だが橘にはそれになんの感慨もいだけなかった。だからどうしたというのだ。何もかもがもうどうでもよかった。
その組織が長らく追っていた人狼が、あの日たまたま橘の家の近くに逃げ込んだという情報を得て、二人はそれを捜索していたのだという。彼らが橘の家に入ってきたのは、橘と人狼との争う物音が聞こえたからだった。
――ヤツは、必ず我々の手で処理します――
男が橘に向かって深く一礼した。女も一拍遅れて深々と腰を折った。
橘はその動作を目にしても一切なんの感情も示せなかった。
礼を終えると、女は黙ったまま橘の方をしばらくながめていた。
――それから――
女は一瞬そう言いかけ、眉根をよせるとまた黙りこんだ。
彼女が初めて見せた人間らしい表情だった。
やがて女が意を決したように、再び口を開いた。
――あなたには二つの選択肢があります
橘がぼんやりとした頭のままでうなずく。
――ひとつは、この事件について、文字通り「忘れる」こと――
――忘れる――?
――はい。我々の組織には人の記憶を一部だけ消去できる技術を持った係官がいます――
――消去――?
――はい。その技術を使って、この事件の記憶をまるごと消すことが可能です――
――事件の――?
――ええ。もしお望みでしたら、奥さんとの出会いからあの夜の間までの、奥さんの記憶を消すことも――
橘の内部で、何かがブツンと音を立てた。
次の瞬間、周囲の音、光、におい、触感の情報が、激しい流れとなって一気に橘の中になだれ込んだ。
妻との記憶を消す、だと?
視界の中の景色が目まぐるしくグルグルと回った。気を失いそうになるほどの衝撃が、橘の脳天からつま先までをくまなくガンガンと打ちながら駆けぬけた。
――いや、だ
それだけは絶対に。
――え?――
――嫌だ
いやだイヤダ嫌だイヤダいやだイヤダァァァ――。
ここが病院であることも忘れ、われ知らず橘は叫び出していた。両の頬を熱い何かがとめどなく流れては落ちた。橘は大声で叫びながらだだっ子のように首を振り続けた。
いつのまにか男が橘の両肩をがっしりとつかみ、静かにゆすっていた。
男の顔には、一言では言い表せない複雑な表情が浮かんでいた。
彼の手に込められた力加減の意外な優しさが、橘の心に少しずつ冷静さを取りもどさせた。やがて潮が引いていくように、橘の叫び声が止んだ。
男がゆっくり橘から手を離す。
――殺す――
それまで思いつきもしなかった言葉が、橘の口をついてこぼれた。
――殺す。あいつは俺が必ず殺す。殺してやる――
口に出してみると、ずいぶん前からそれが本心だっかのように、その言葉はゆっくりと橘の心にしみ込んでいった。
出しぬけに、コンコン、と病室の扉をノックする音が聞こえた。女が中からかけていたロックをはずす。
静かにドアを開け、黒縁眼鏡の長身の男がゆっくりと入ってきた。二人によく似た雰囲気の、黒いスーツの男だった。
男は自己紹介もそこそこに、自分は橘に「ふたつ目の選択肢」を持ってきたのだ、と告げた。
それが橘と賀茂室長との、初めての出会いだった。
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