怨霊大戦 第1話
しめり気をはらんだ夜の大気が、龍骸寺の境内をしっとりとつつみこんでいた。
月明かりが古びた石畳に銀色の光をさしかけ、寺塔を使って不穏なシルエットを描き出している。
山あいから吹き下ろす風が、うなりのような叫びのような、さびた音色を運んできた。
境内には、先ほどからはりつめた空気がただよっている。
戦いの予兆が目に見えぬ形をとり、夜の闇にまぎれてこっそりと忍びよってきたかのようだった。
ふいに、寺の鐘の音が時の流れを断ち切った。鐘は対決の幕開けを告げるために境内に響きわたった。
境内の端と端には、異なる運命を背負った二つの影が、ただ静かに立ちつくしていた。
月明かりの下で、彼らの存在が重なりあい、対峙する瞬間が刻々と迫っていた。
境内に響くまがまがしい鐘の音と戦いの気配が、二つの影法師をゆっくりとつつんでいった。
一方は二メートルをゆうに越える身体を持つ巨漢だ。
遠目には人というより、ごつごつした岩塊のように見えた。
男の全身の筋肉は、鍛えあげられた鋼のように張りつめている。
その丸太のような腕には巨大な戦斧が握られていた。
斧の両刃は月光さえ吸い込むようなにぶい輝きを放っている。
男はボロボロの道着をまとっていた。
道着の色は赤だったが、ところどころが赤黒く染まっている。
男の両の頬には、目からアゴに向け涙筋に似た二本の赤い傷が走っている。
男の瞳は深い憂いをおびており、どこか遠い時代の哲学者を思わせた。
青みがかった黒髪が、折からの風にたなびく。
もう一方は、男とは対照的に小がらな少年だった。
年の頃は十五、六歳に見える。
聡明そうな瞳には、なんらかの決意が宿っているのが見て取れた。
少年は青紫に染められた神職の装束を身にまとっている。
腰には神職の身なりには似つかわしくない大小の刀を差していた。
烏帽子などはかぶっておらず、少年らしいさらりとした髪が風にそよいでいる。
寺の境内は、満月の月明かりに照らされていた。
長いあいだ響き続けた鐘がようやく止み、境内にふたたび静寂がおとずれた。
境内の端から、少年が中央へと踏み入ってきた。
静寂を打ち破るように、少年はりんとした声で名乗りをあげた。
「陰陽師、安倍晴明春晶と申します」
彼のまなざしは巨漢の方をしっかりと見すえている。
巨漢がフッと口元をゆるめ、少年の名乗りに応じた。
「我が名はアテルイ。北の民の想いを背おいし者だ」
その声は野太く低く、境内の岩々をも揺るがすように響いた。
風がいっそう強さを増し、男の青黒い髪を舞いおどらせる。
「アテルイどの――というと、北の蝦夷の、あのアテルイどのですか?」
「まさしく」
アテルイは平安時代に陸奥国(現在の岩手県)で北の民をひきい、当時の朝廷と激しい交戦を繰りひろげた男である。最後は民の命と引きかえに降伏し、朝廷軍の坂上田村麻呂の助命嘆願もかなわず処刑された。
「で、お主はあの晴明というわけか――。おたがい遠き平安から呼びかえされるとは難儀なことじゃのう」
言いながら男はゆったりと歩を進め、少年との距離を縮めた。
「見れば、まだお主の身体は満足に成長しきってはおらんようだ。わしは弱いものをいたぶる気持ちはさらさらない。お主が降伏してこの場を立ち去るならば見のがすが――」
少年が涼やかにほほえみながら応じた。
「あいにくと僕にも事情がありまして。自分の命と兄弟のこれからがかかっているもので――」
――あの女とも約束したし、な――
少年の脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。
彼女も今ごろこの戦いを見守ってくれているはずだ。
「おたがいにひけぬ事情というわけか――」
「そうみたいです」
「では、参る!」
声を上げるやいなや、アテルイは大斧を大上段に振りかぶり、少年めがけて打ちおろした。
ビュン、と斧が空気を断ち切り、凄絶な音を鳴らした。
その瞬間、少年は後ろに飛びすさってその一撃をかわした。
風を操るかのような軽やかな身のこなしだ。
しかしそこに向け、アテルイの斧が間髪入れずに振り下ろされる。
その連続する攻撃には一瞬の隙間もない。
「借魂、仲麻呂!」
少年はどこからか取り出した紙片を顔の前で軽く振った。
紙は青白い炎を上げ一瞬で燃えつきる。
炎はかたちを変え、大きな赤鬼の姿を取った。
鬼の身体もアテルイにひけを取らないほどのたくましい筋骨だ。
鬼はアテルイが振り下ろした斧を、白刃取りの構えで受け止めた。
斧の両端を持つふたりの筋肉が、はち切れんばかりに盛り上がる。
拮抗が続くかに思えた瞬間、アテルイがぐいと斧を横にひねった。
そのまま斧の刃を横になぐ。
斬られた鬼の手首がどんと飛んだ。
自由になった斧をアテルイが鬼の頭上に振り上げる。
鬼はそれを防ごうと片手を上げた。
が、その腕を斧が真っ二つに切り裂く。
刃はその勢いのまま、鬼の頭を容赦なくかち割った。
鬼の巨体が徐々に薄らいでいき、やがてかげろうのように消え去っていった。
「ぬるい!」
アテルイの斧が今度は少年に向けて振り下ろされた。
薄闇の中で、女は意識を取りもどした。
ほのかな甘さと煙たさをまとった香りが鼻先に立ち込めていた。のどの奥が少しいがらっぽい。
背中に当たるマットレスの硬い感触で、女は今自分がベッドに横たわっているのだと感じた。
胸までかけられた薄いシーツをするりと外し、そろそろと身体を起こすと、彼女はようやく自分が一糸まとわぬ姿であることに気づいた。
体を滑らせてベッドから降りると、薄ぼんやりとした視界の中で、少しずつ周囲の輪郭が明らかになっていくのを感じた。
彼女がいる場所は病室のように思えた。
部屋の四方の広さはそれほどなく、個室のような雰囲気がただよっていた。
窓から差しこむ月明かりをたよりにあたりを見わたす。
部屋の中には、ベッドと丸椅子、そして小さな衣装ダンスが置かれているだけだった。
丸椅子の上には香炉が置かれ、そこにはお香の燃えカスが細い煙をたたえていた。先ほどから部屋にただよっている甘い香りの正体はこれだった。
壁には姿見用の大きな鏡がかけられていた。
彼女はベッドから立ち上がり、そこに映る自分の姿をながめてみた。
以前より少しやせてはいるが、その均整のとれた美しい裸身は、窓から差しこむ月明かりによって鏡の中で輝いていた。
その肌は、かすかな明かりに照らされて、乳白色の光沢を放っていた。
身体のアウトラインにはしなやかなカーブが優雅に流れ、その丸みを帯びた美しい抑揚はギリシャ時代の彫刻を思わせた。
胸元には、たしかな重さを持った二つの乳房がやわらかな線を描いており、月光がその優美なふくらみに触れるたび、微妙な陰影を生みだしていた。
しかしその美しい胸からやや下に目をやると、腹部には何本もの無惨な縫合の傷が走っている。
傷跡を抜けると、腰のくびれから臀部へと広がる線が、なだらかに曲がりくねる天然の大河のような見事なカーブを描いているのが見てとれた。その輪郭は、気品と女性らしい魅力を同時にまとっている。
彼女の顔には一切の化粧がほどこされていなかったが、日焼けとは無縁の色白な素肌は、月明かりの下でもわかるほどの透明感をたたえていた。
彼女の瞳は、闇より深い漆黒の色に彩られていた。その鼻梁は高く、全体の顔立ちには凛とした爽やかさと女の色気があふれていた。量感のある唇は花弁のようにやわらかそうで、誰もがそれに触りたくなる魅力を放っていた。
彼女はもやのかかった意識の中でぼんやり考えた。
――自分の容姿には、まだ男性をひきつけるだけの魅力が備わっている――
彼女は自身の体にひそかな誇りを持っていた。長期の闘病生活に耐えながらも、その体からはいささかの美しさも失われてはいないのだと。
――闘病?
ふいにその言葉が彼女の心に浮かびあがった。
――思い出した。そう、自分は長い間病魔と戦ってきたんだ
内臓のガンに立ち向かい、何度も大手術を受け放射線治療にも耐えてきた。
彼女の心には、自分の闘病生活につきっきりで伴走してくれた夫の姿が鮮明に浮かんでいた。
悲しみを押し隠し、いつも私に優しくほほえんでくれた、眼鏡をかけた細面のいとおしい彼。真人――。
そう、真人は、最期のときにも彼女の手を強く握りしめ、約束してくれたのだ。
――生まれ変わったら必ずまた、必ず一緒になろう
突然、頭の中に鋭い痛みが走った。何かがおかしい。
最期の光景が彼女の脳裏に鮮明によみがえった。
彼女のベッドの横で、雨にぬれた子犬のような目をして泣いている夫の顔――。
最期。最期とは、いったい何を意味するのだろう?
考えている間に痛みはますます激しくなり、頭が割れるようにきしんだ。
――そう、そうだ。私は確かに死んだんだ――
三年にわたる治療にもかかわらず、ついにガン細胞が体全体に広がり、二十七歳の夏、彼女はこの世を去ったはずだった。
その瞬間の確かな記憶はないが、体がその事実を覚えていた。
では、ここにいる自分は一体誰なのだろう? そしてこの場所はどこなのだろう? 死後の世界なのだろうか?
漂っていたお香のにおいに慣れると、今度は鼻腔をつんと刺激する薬品の匂いが、周囲の空気にわずかに混じっているのに気づいた。確かにここは病院のようだ。
あらためて部屋の中を見まわす。
丸椅子も衣装棚も、うっすらほこりに包まれている。
なにか着るものがないかと衣装ダンスの中をあさってみたが、引き出しの中には数枚のタオルと古ぼけた薬袋しか見つからなかった。
やむを得ず裸の身体にシーツだけを巻きつけて、彼女は病室の外へと足を踏みだした。
頭の痛みはまだ残っていたが、ふらつくようなことはなく、不思議と足どりは軽かった。
人は死んで霊的な存在になると、生前の肉体的な苦痛や傷が治るものだと聞いたことがある。もしそれが本当ならば、やはりここは死後の世界なのかもしれない。
廊下の灯りはほの暗く、緑の非常灯だけが弱々しい光を放っている。
その非常灯さえも、そのうち消えてしまいそうな勢いで、時折ちらちらと明滅している。
彼女は、先ほど出てきた部屋のドアに何気なく目をやった。
ドア脇のプレートに、手書きの名前がひっそりと書き込まれている。
――鈴村 麻沙美――
彼女の脳内で電光が走った。その名こそが、彼女自身の名前だった。
するとここは、やはり自分が入院していた病院なのだろうか。
いや、明らかに環境が違っている。以前の病院は、もっと清潔で先進的な場所だったはずだ。
改めて思い返してみると、この病院は部屋の内装やドア、すべてが古びて見えた。失われた古い時代の空気がおりのようにこの場所にただよっている印象さえ受ける。
彼女はリノリウムの床を裸足で踏みしめながら歩きだした。
奥の方にまっすぐ続く廊下をゆっくり慎重に歩く。
廊下の壁には掛け時計がかかっていた。
時刻はちょうど二時を指していたが、秒針が動いていないところを見るとどうやら止まっているらしい。
しばらく歩いていると、別の病室と思われる部屋の扉が目に入った。
ドアの両脇に何もない壁が続いているので、おそらくそこは大部屋だろう。
麻沙美はその扉を開けてみることにした。
ギィィィィッ。
きしむ音をたててドアがゆっくりと開いた。
用心深く中に足を踏み入れる。
部屋のにおいが鼻をついた。
カビくさく、よどんだ冷たい空気が流れている。
中は予想通りの大部屋だった。
薄暗いものの、いちおう常夜灯の明かりはついている。
部屋には六つのベッドが整然と並んでいた。その全てに誰かが横たわっているようだが、何だか違和感を感じた。全く音がしないのだ。
静寂だけが部屋を支配し、どこからも寝息や衣ずれの音が聞こえてこない。
時が停滞したような、不気味な静けさが部屋中に広がっていた。
麻沙美は心を決め、ベッドの一つへと近づいていった。横たわっているのは長髪の女性のようだ。
「もしもぉし」
声をかけてみるが、そこに横たわる人物からは何の反応もない。
やむを得ず、シーツが掛けられたままの片腕に手を伸ばし、軽くゆすってみる。
ごろん、と、あおむけに寝ていた人物の頭がゆっくりとこちらにかたむいた。
しかし、その眼球にはもはや生気の光がやどっておらず、あらぬ方向を見つめていた。
「ひっ――」
彼女は思わず息をのんだ。
叫び声がこぼれそうになるのを必死で押しとどめるように、自らの手で口をおおった。
死体。目の前にあるのは、確かに死体だった。
そして恐らく、残りの五つのベッドにも同じようなものが横たわっているに違いない。
ペタン、ペタン――
いつの間にか、廊下の向こうから徐々に近づく足音が聞こえてきた。
彼女は一瞬で思考を切りかえ、ベッドの下へと身を隠した。
ギィィィィッ。
再び音を立てて、ドアがゆっくりと開いた。
ベッドの下からはよく見えないが、足音の響きや歩みの重さから、部屋に入ってきたのは男性だろうと思われた。
男は手にした懐中電灯をゆらしながら、何かを捜し求めているようだった。
男の動きに合わせて光と影が部屋の中で舞いおどり、不気味な影絵を映写しているかのようだ。
男は部屋の中を巡回し、次々とベッドの上を照らしていく。
男が近づくにつれ、麻沙美はいっそう息をひそめ、身をちぢめた。
彼女の全身は緊張で固まり、敏感になった聴覚には自分の心臓の鼓動まで聞こえるほどだった。
やがて男は、麻沙美が隠れているベッドのすぐそばまで来た。
男の方からため息のような呼吸がわずかに聞こえる。
男はさっきの女性の遺体の、頭の位置をととのえているようだった。
麻沙美は呼吸を完全に止め、自分の体を両腕で強く抱きしめた。
心臓の鼓動が、部屋全体に響いているかのように感じられた。
永遠にも感じられる時間が流れた。
男は遺体の位置を直し終えたようだ。
やがて男は再びきしむ音をたてて扉を開き、部屋の外へと去っていった。
麻沙美は安堵のため息をついた。
そのまましばらく耳をすましていると男の足音は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
彼女は慎重にベッドの下からはい出し、呼吸をととのえた。
一連の出来事が、まるで夢か幻のように感じられる。
麻沙美は思案した。
――このまま元の自分の病室にもどろうか。朝まで待てばきっと医師か看護師がやってきて、この不可解な事態に納得できる説明をつけてくれるだろう
一瞬思案をめぐらせた後、彼女はかぶりを振った。
彼女は今の自分が不自然なまでに楽観的であることに気づいた。
恐怖と混乱のせいで、あまりにも安易な考えに自分をゆだねようとしている。
――危ない、危ない――
最初の病室にはナースコールのボタンすら見あたらなかった。
大部屋のある階にもかかわらず、近くに明かりのともるナースステーションの気配も感じられない。
この病院には、おそらく医師も看護師も存在しないのではないか。
――ここを出よう
そう麻沙美は決意した。
どうにかしてこの場所をはなれ、近隣の住人か警察に助けをもとめるしかない。
思い立つと行動は早かった。麻沙美は病室の外の様子をうかがって、音がしないことを確かめると、ゆっくりと扉を開いた。
扉のきしむ音が、まるで病院全体に響きわたるかのようで、身が凍りついた。
わずかに開いたドアのすき間から、廊下の暗がりがのぞく。
――一刻も早く、一階につながる階段か、外への扉を探さなくては――
明滅する非常灯の光をたよりに周囲を見まわす。
そこには誰の姿もなかった。安堵の思いが胸を満たす。
彼女は廊下へと足を踏みだし、奥のほうへと歩を進めた。
と、その瞬間、突然の悪寒が背中を通りぬけた。
後ろに誰かの気配が色濃く立ちこめているのを感じた。
恐怖と逡巡に固まる身体を無理やりひねり、後ろを振りかえる。
そこには、白衣に身を包んだやせた男が立っていた。
それは暗闇に浮かび上がる幽鬼のようであった。
「ひぃっ」
思わず短い悲鳴が出た。
白衣を見た瞬間は医者ではないかと思ったが、その考えは男の雰囲気を見てあとかたもなく消し飛んだ。
男の周囲には確実に、常軌を逸した何かがただよっている。
「いけませんねぇ。死体が勝手に動いては――」
男が口を開いた。
その声は彼の風体と調和し、不気味な暗い調べをかなでていた。
男の顔立ちには、何の特徴もないように見えた。
だがその両目の部分は暗く落ちくぼみ、そこだけ深い闇の色を宿している。
よく見ると、その中にはかすかな白い点がただよっていた。
目の中でいくつもの小さな銀河がまたたいているかのような錯覚が、麻沙美の脳裏をよぎった。
「ああ。いかんいかん、うっかり気を抜くとすぐこれだ――」
男は指先をひたいに伸ばして、両の目の部分をぬぐうように触った。
手が離れると、彼の目は普通の人間のそれへと変わっていた。
「ひっ」
再び麻沙美の口から小さな悲鳴がもれた。
自分の心臓が激しく打ち鳴る音が、耳の中で大きく響く。
男はゆっくりと、漆黒の闇から溶け出すようにこちらに迫ってきた。
逃げようとしたが、身体にまったく力が入らない。
自分の両足が地面に根を張って、くっついてしまっているかのようだった。
「予想よりずいぶん早く目覚めたみたいですが、それはそれで良い。あなたが器になりうるかどうか、ひとつ試し腹といきますか――」
男のねっとりした声が麻沙美の耳に届く。
その言葉に秘められた不穏な響きに、麻沙美の背筋に寒気が走った。
近づいてきた男が麻沙美の両肩をつかんだ。
冷え切った息が頬に当たる感触があった。
その温度はまるで死者の息吹のようで、彼女は身の毛がよだつのを感じた。
――いや、いや――
麻沙美は身をよじって男から離れようとした。
しかし男の手はがっしりと彼女の肩を押さえつけており、のがれることなど到底かなわなかった。
そこで麻沙美はふと気づいた。
両肩をつかんでいる手の指先一本一本がが、いつの間にかぬめぬめとした五匹の蛇に変わっている。
「ひぃっ」
麻沙美の口から悲鳴がこぼれる。
男の顔に目を戻すと、その髪は逆立ち不気味にゆらめいていた。
その髪の毛の束一つ一つが、ちろちろと赤い舌を出す蛇に変じている。
男の目は漆黒に戻り、その中には、再び星のような輝きが無数に点在しているのが見えた。
それは極小の蛇たちの目だった。
死肉にたかるウジ虫のように、男の目の中で無数の小さな蛇の群れがうごめいている。
その瞬間、麻沙美は恐怖に意識が飲み込まれていくのを感じた。
視界がぼんやりとゆがみ、彼女は暗闇の中へと沈んでいった。
夜の道を、異形の集団が一列になって静かに進んでいた。
遠目には和服を着た子供たちのようにも見えたが、奇妙なことに人間の子供にしては身長が小さすぎた。たかだか三、四十センチほどの背たけである。
異形の人数は六人ばかり。
彼らの髪型はさまざまで、頭頂部に筆の穂先のような髪が少し残されている者、おかっぱになっている者などがいた。
しかし不思議なことに、どの顔も同じような造作を持っている。
まるで同じ型で作られた人形のようだ。
彼らの肌はなめらかで白く、陶磁器のような質感を持っていた。
そしてその顔には、いかなる人間的な表情も浮かんではいなかった。
一列になった彼らは、みな猫背になって進んでいる。
両手は胸の前に突き出され、まるで何かを抱えこんでいるかのようだった。
ほとんど足を動かさぬまま、彼らは地面をすべるように進んでいく。
その足音は、実体なき幽霊のように全く聞こえない。
やがて彼らは道をそれ、小高い山の方へと進んでいった。
山道を登っていくと、そこに石積みの小さな墓碑が姿をあらわした。
墓碑に着くと、その奥を一人が持っていたヘラで掘り始めた。
他の者たちも、それに習って穴を掘り始める。
穴は次第に深くなっていった。
どれぐらいの時間がたっただろうか。
やがて一人が、その手に黄ばんだ陶器の破片のようなものをつかみ上げた。
瞬間その者の顔が一変し、にいっと人間くさいほほえみが口のはしに浮かびあがる。
一団は掘った穴をきれいに埋めもどすと、再び列をなして静かにその場を去っていった。
今年もまた、終戦記念日の時期がやってきた。
政治家たちが、亡くなった英霊への哀悼の意をささげに靖国へ参拝する季節だ。
折からの小雨が神社を覆い、参拝者たちの服を少しずつ濡らしていく。
SPに見守られた議員たちが鳥居をくぐり、拝殿の前で順々に手をあわせる。参拝を終えた議員らに、集まったマスコミが我先にと近づいてきた。
議員たちの顔には、かすかに嫌悪感が浮かんでいる。彼らは辟易している内面をどうにか包み隠していつものコメントを返す。「これは公式参拝ではなく個人としての参拝です」と。
政治家たちの参拝が一通り終わったあたりで、空模様が変わった。
空には黒い雲が急速に広がり、不気味な雷鳴が轟きわたった。
激しい天気の変化に、参拝者の心に不安が広がる。
雨は氷のように冷たく変じ、まるで天が怒りにまかせて大地をなぐりつけているかのような激しさで降りそそいだ。
一面、雨の弾幕となった空に、雷光がゆがんだ影を浮かび上がらせた。
影は徐々に形を変え、やがて戦国時代の鎧兜をまとった武将の姿を取った。
その影は、黒雲と溶けあうようにして悪しき空気をまとっていた。
武将の影は、周囲が震えるほどの声で語りだした。
「我が名は平将門なり。我の魂が地上に呼ばれ、我が復讐の時が来たりしことを、この世界に告げるものなり!」
その声はまるで地獄の底から響く鬼神の咆哮のように思え、聞く者の魂を震えあがらせた。
総理をはじめとする閣僚たち、TVレポーターや新聞記者らは、眼の前で起こった不吉な現象にあわてふためいていた。
彼らは自然の摂理を超えた出来事に茫然とし、ただ悪霊の姿を見つめながら、恐怖の戦慄が背筋を伝わっていくのを感じることしかできなかった。
カメラマンたちは、武将の影をとらえるために必死で空にレンズを向け、その悪夢のような光景を記録におさめようとしていた。
参拝者たちも、先を争うようにしてスマートフォンを空へとかざす。
「我は七年後の本日、八月十五日に蘇るべし。これにおいて我に同意せし七人の鬼が共に生を得ん。我らは都・東京を滅ぼす志を抱く者なり。もしやこの企てを阻みたくば、汝らも七人の勇士を備え、我らと対峙せよ。決着の場所は秩父の勝浦山、龍骸寺なり」
雨空に浮かびあがる武将からの宣言は、雷雨にかき消されることなく周囲に響きわたった。
武将の影は、ただ一方的に宣言を終えると静かに姿を消した。
空に上った花火の残像が消えるように、武将の姿は次第にかき消えていった。
あれだけ激しかった雷雨が、いつの間にかやんでいた。
その場に立ち尽くす聴衆たちのほとんどが、放心状態のまま影の消えた虚空を見つめていた。
後日の確認によると、いあわせた者たちが撮影した映像や音声には全てひどいノイズが乗っており、まともな記録は残ってはいなかった。
政府からの厳しい箝口令によって、報道関係者や一般の参拝者たちには当日起きた事実を公にすることが禁じられた。
関係者の多くは、その日自分たちが集団的な幻覚を見たのだと思いこむことで釈然としない気持ちをなだめるしかなかった。
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