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期待とか願いとか努力とか想いとか

期待すると、外れた時にがっかりする。願っていると、かなわなかった時に残念な気持ちになる。努力すると、達成できなかった時に失望する。想うと、想われなかった時に悲しくなる。

だからといって、期待も願いも努力も想いもないほうが良いかというと、そうじゃないだろう。その過程に沢山の学びがあり成長があり、痛みや挫折や悲しみも含めた貴重な経験があるのだから。


…果たして、本当にそうなのだろうか。

本人が「いい経験になった」と思っていたらいい経験に思えるし、「無駄な努力だった、何も残らなかった」と思っていたら無駄にも思える。

だが、経験したという事実そのものは、本人がどう評価したところで変わらない事実だ。客観的評価など存在していなくて、ようは自分で価値ありと思うかどうかだ。

今後の何かに活かそうと思えば活かせるかもしれない。あるいは、何も思っていなくても活かされるかもしれない。誰かの描いた理想的なコースで進めなかったとしても、身に付けたものは簡単には剥がれ落ちない。自転車が乗れるようになった人は、一生乗れる。

気持ち自体は水物なので、あまり強制しないでおいて、自然とやる気が出てきたら再評価してみるのもいいかもしれない。何事も渦中にいるうちは神経過敏で高慢になったり卑屈になったりしやすいものだ。

努力は多分、人生がそのひとのものらしくなるためには必要なものなので無駄にはならないと思う。なお、出来れば、楽しんで努力できると良い。どうせ苦しむなら楽しんで。宇野昌磨さんがそんなようなことを言っておられました。
ポイントは、自分で選び、その上で「自分で選んだのだ」と確認しながら進むことだ。

で、努力してもいいし、努力しなくてもいい。

結果に違いはあるけど、ただ違うというだけ。今が人生で一番若いのだから、やりたいなら今やればいい。でも一年後やっても、何の問題もない。

今日頭を抱えたくなるような失敗があっても、百年後には(いや十年後でさえ)誰の記憶にも残らないちりのような出来事に過ぎない。

努力しても明日は来るけど、ごろごろ寝ていても明日は来る。それでも世界は回るし、それほど何も変わらない。

努力って言うと、なにか他人が決めたハードルを越えるようなイメージがあるから嫌なんだと思う。

「やりたいことをやりたい」
「やりたいことをやる」
それがね、努力だと思うんですけど、どうすか。

他人に羨まれる人生を送りたいんじゃなくて、自分が送りたい人生を送りたいんですよ。
過去の自分が憧れていたものを掴んで、そうか憧れていたのはこういう感じだったのかと納得し、楽しいねぇ、次はどうしようかねぇと考える。

思い通りにならないこともあるけれど、それは適宜織り込んで、何度でも再出発である。

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