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ぽやぽやぽや

楽しいお話の時間だった。

・なんとなく似ている二つの家族
二家族とお話しした。姉妹がいて、それぞれに旦那さんと、それぞれに一人娘がいる。娘達は今大学三年生。私は妹の旦那さん、そしてお姉さんと割と仲がいい。

その中では私が一番年若いのだけれど、とても心地良い空気が生まれるのだ。お姉さんはチャキチャキしていてもてなし上手で明るい。妹の旦那さんは人懐っこくて物おじせず、昔はやんちゃしていたのが今は落ち着いて優しくなった感じの人。私はニコニコしながら楽しくお話を聞かせてもらう感じになった。

姉妹はどちらも娘たちに強く言う方で、自らスパルタママだと言っていた。きっと姉妹のお母様も似たタイプの強い母なのだろう。二人の旦那たちは両方とも穏やかで、苦笑いしながらもうまく全体を調整していくタイプの男性だ。いや、長年の付き合いでそのようなところに落ち着いたのだろう。

・子どもだなぁという感想
大学三年生の娘さんたちは、小さい時から知っていたのだけれど、なんだかまだ子どものように見えた。いや、20歳の大学生って…子どもなのだ、実際に。そう思うのは、私が年をとり、それにもかかわらず自分をまだ子どもだなと思っているからだ。自分ですら未熟なのに、20歳なんてとんでもなく狭い世界でふわふわと浮かんでいるようにしか見えなかった。
でも親子の会話を聞いていて、とても穏やかな気持ちになった。二人の娘たちは、両親の愛情と思いやりと配慮にたっぷりと包まれて、のびやかに過ごしていたから。
「子どもだ」というのは見下しているような表現に思われるかもしれないけれど、そこに軽蔑の意味はない。柔らかな心が柔らかなままで、他人の前に素朴に存在している20歳の姿をとても微笑ましく思ったのだ。強いて言うならば、このまま、ある種のすがすがしいわがままを振りまいて大人になって欲しい様な気もした。

・「父不在」の奇妙さ
子育てについて妹旦那からこんな話を聞いた。彼は娘が生まれたころ、仕事が多忙でいつも夜10時を回るのが珍しくない状態だった。そうすると、たまの休みに娘を抱っこしても全く懐かず、泣いて泣いて仕方がなかったそうだ。
 そんな状態がしばらく続いて、彼はこれは良くないと思った。人格形成の大変重要な期間と言われる0~3歳までの間に、自分も父親としてしっかり娘と関わりたいと考えた彼は一念発起して転職し、それまでよりも早めに帰宅できる会社に就職。おかげで幼い娘といつも一緒にお風呂に入る時間をつくることが出来たそうだ。それ以来今や大学生の娘はずっとパパ大好きになり、「父親を毛嫌いする娘」という反抗期もついぞ現れなかったそうだ。

 私の父親が、まさに家庭にいない父だった。家庭の中に父親の存在がない。夜遅くに帰って来て、疲れて、会話もなく、不機嫌で、黙ってまた仕事に行く。休日も心が家庭に無い。いつもそうであったか、記憶は定かではない。でも楽しくじゃれ合って、リラックスして過ごしていたという思い出はほとんどない。

さらに、思春期には数年間単身赴任だった。文字通りの「不在」。もはや不在である方が自然であり、たまに存在すると気づまりで息苦しくなった。
 一緒にいないことによって、「不在」という関係性が生まれることを、身をもって経験した。奇妙なのだ。内実がないにもかかわらず、「父親とはこういうもの」「家族、子どもとはこういうもの」という奇妙な嘘くさいプレッシャーだけが家庭に流れる。実際にはコミュニケーションがなされていないのに。心が通っていないのだ。

昔は分からなかったけれど、今は、言えるよ。

私は

父が

嫌いだ。



 時間と場所を共有し、思いやりをもって一緒に過ごすことによってしか、家族は家族になれない。

もう今更、誰を責めるつもりもないが、ただそれが真実だと思う、というだけだ。人間の心の可塑性には限界がある。繰り返し、長期間、奇妙なプレッシャーにさらされると、戻らない形に変形するのだ。

妹旦那の子煩悩がとてもかわいらしかった。娘にデレデレの父親って素敵だ。結婚式ではだーだー涙を流すのだろうな。

子育てにはいろいろな苦労と工夫があり、何が良かったか悪かったかというのはすぐには分からないものがあるけれども、子どものために転職を決意したことを嬉しそうに目を細めながら語る彼は幸せそうだった。

・いろいろ言ってみた結果
 自称スパルタママの姉は、いろいろ口うるさく教育した割には、娘の成長は思い通りには進まなかったようだ。英語を学ばせようと思って小さいころからECCの英会話クラスに通わせたけれど、さして英語は得意にならなかった。読書が好きな子になって欲しかったけれど、読書どころか勉強も好きじゃないみたい。その長い話の結論は、結局子どもが自分で好きなことを見つけて取り組んだときしか能力はあまり伸びないみたい、という至極当たり前のものだった。
 笑ってしまっては悪いのだけれど、そのありきたりな教育ママの話しを聞きながらニマニマとしてしまった。娘の気持ちは聞いてみなければわからないが、母は娘にいっぱい夢を詰め込もうとしたんだなぁと感じた。微笑ましかった。

言語は、実際に話す必要がある場所で暮らしたり、英語で話す友達がいるようなことがあったりでもしないと、内的な必要性を感じないだろうな、と。
本に関しては、正直分からないけれど、両親が楽しそうに家で本を読んでいたら子どもも読むんじゃないかなぁと思った(言わなかったけど)。
姉の娘は、どことなく自立心の強い、自己主張のある落ち着いた女の子だった。母親とはぶつかりながらも良好な関係を築いているように見えたが、どうだろうか。

・育児は育自
この二人との話しが気持ちいいのは、彼らには誰に何を思われてもあまり気にしないというあっけらかんとした態度があるからだ。そして、お互いに誰もお節介なアドバイスはしない。

子育てなんて、みんな必死で、良かれと思いながら変なことをやり、張り切る割には息切れして、正論振りかざす癖に自己嫌悪に陥って、まるで子どもが子どもを育てているようなものなのだから。

ある人が、「子どもを育てることで、親は親にしてもらうのかもしれない」と言っていた。そうなのかもしれない。

大変ではあるけれど、相撲のようにがしがしぶつかりながら、夫婦も親子も強い絆で結ばれていくのだ。

あぁ~、お話、楽しかった~。



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