気の持ちようとかものの見方とか

眠って目覚めた時、たまにきれいさっぱり記憶が消えたような感じになって「ここどこだっけ…あれ、何曜日かな」と一瞬ぼーっとすることがある。たまに、ですが。
集中して夢を見たあとなのかな。夢の世界観が強すぎて現実の設定を忘れてしまっているような。あるいは深く深くねむってとろとろに溶けてしまったような。

現実の設定を思い出すと、それと共に付随するいろんな感情も拾っていく。そうだ、今日はあれをするんだ楽しみだなぁとか、連絡しておかなきゃ面倒だなぁとか。

もし設定を思い出せなかったら、私は私の役割を果たせなくなってしまう。

ダヴィッドの顔を見ていると、その日その日を新鮮に生きている感じがする。一日一日が連続していない。今日は明日のことは考えないし、昨日のことも思い出さない。

そんなふうに生きていた日もあったかなぁ。あったような気もする。

生きている世界は狭いけれど、自分の人生をしっかりと掴んでいて清々しい限りだ。

今日はハイチェアの選定に行ってきた。ついでに西松屋で服も買う。あっという間に大きく重たくなる。写真を見返すとチョット引くくらいの速度で膨れてきている。きっと中身も目まぐるしく神経回路が複雑に張り巡らされて行っていることでしょう。

認知症になり記憶が整合性をとらなくなったら、どんな気持ちになるのだろう。整合性が取れていないことには無自覚なままに、なんらかの世界を見ていくのだろう。そして少しずつ私は私の役割を果たせなくなっていくのかな。

水商売をすると金銭感覚が狂うという話を聞いた。労働の対価が一般的な労働の基準・感覚とズレていて、短時間で稼げてしまうために湯水のようにお金を使ってしまうのだという。

水商売が簡単な仕事だという訳では無いのだろうけれど、時間をかけて自分でコツコツ稼いだという実感のあるお金だからこそ、工夫して大切に使えるということらしい。短期間で儲けたものは、短期間で使ってしまう。そういう心の仕組みがあるらしい。
良いことがかえって悪いことを呼び寄せてしまうこともある。

記憶、経験、価値観。それらがいわばこの世の私という設定を形作っているものである。

変えようと思えば変えられるものもある。
受け入れて認めた上で、捉え直せるものもある。
これからその上に、新しいものを積み上げていけることもある。

公文は、2学年上の勉強内容に取り組むことを推奨していて、私も2年上の算数をやっていたので得意な意識があった。実際には得意なのではなく、ただ他者より先に取り組んでいるので授業内容がより楽に理解出来るというだけなのだが、それがやる気に繋がり、最終的には実際に得意になるのだ。
能力の差ではなく、「得意なんだ」という錯覚がやる気と実践を生み出し、結果を作り出す。そんなこともあるのだ。好きは作り出せる。競争はあまり好きではないけれど、勝てるかもという自信は得意と好きを生み出すのだ。

幸せが究極的には感覚的なものなのだとしたら、例えば100円で幸せになれる人と、1000万円で幸せになれる人となら、前者の方がいいか?
そんな単純なことでも無いだろう。時代の物価や労働観念に適応した感覚が必要だ。後者を適切に扱える感覚も大切だろう。

幸せは、人間関係や物や肩書きや名誉や健康や安定ややりがいや喜びや刺激や、その他いろんなものによって構成されている。

ただ、何を持っているかよりも、不幸だと感じるものがより少ない方が幸せだと感じられるような気がする。口内炎が出来ただけ、寝坊して遅刻して笑われただけでも、不幸だなぁと思うことは出来るから。

幸せと不幸は対義語ではない。たくさんの幸せに囲まれた不幸な人もいるし、たくさんの不幸せに囲まれて幸せを噛み締めている人もいるだろう。

100円の有難みを忘れずに1000万円を適切に扱っているならば、それはまあ幸せには近づく気がする。どうかしら。

考えていることを書いてますが、思っていることを書いているという訳でもありません。文字として書き出すと、一応論理的な整合性を取るために結論が導かれますが、結論に向けて書いてる訳では無いので、書き終わったあとに(そうかな??)とか思ったりします。

結論としては、「何事も気の持ちようというのは割と真実」というところでしょうか。その気の持ちようとかものの見方というものを変えるには、自分の手で掴めるものをちゃんと掴んでいくことかなと思います。
目に見えないものを変えるためには、目に見えるものを整えていくと良い気がします。これは思っていることです。




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