Popper "High school of violoncello playing" op. 73

ポッパー作品番号73「チェロ演奏の高等課程への練習曲」と訳される全40曲からなる練習曲集である。「高等課程」とか「上級教本」とか訳されるけれど、「チェロ弾き高等学校」くらいに訳せば気軽に取り組めるかもしれない(冗談)。適切な順序で取り組んでいけば、その先にある多くのレパートリーを演奏するための良い準備になることは間違いない。

ーーー

David Popperは"High school of violoncello playing"のなかに40曲の練習曲を集めた。これらは今日のチェロ学習のスタンダードな練習曲集として存在し続けている。現在入手可能な練習曲集の中でもこれらは特別な位置を占めており、各エチュードは一つの技術かあるいは一つのコンビネーションのために特化して書かれている。これほど厳格に方法論的アプローチを保っているコレクションは他にはない。;アルフレッド・ピアッティの簡潔なカプリチオーゾ集もこの点ではいくつかの例外がある。またグリュッツ・マッハーの数ページに渡るエチュード集は言うまでもなく、完全に対照的ないくつかのセクションを必ず繋げている。ポッパーの「チェロ演奏の高等課程への練習曲」は、「school」と「etude」の両方の意味に等しく貢献している唯一の練習曲集である。殆どの曲は、関連する特定の技術的課題を完全に習得しなければ、上手く弾くことは不可能である。この一貫した焦点こそが、この曲集の独自性と今日における妥当性を構成している。
 数年以上かけて生み出されたこの40のエチュードは、難しさの進度の順で体系的に構成されいるわけではない。それゆえこれらの曲集は多かれ少なかれ各自の判断で自由に取り組まれてきた。主題的な関係は最初の10曲においてのみ識別することが出来る。例:2番から4番、8番から10番。より複雑なエチュードのほとんどは、予想される通り、曲集の後半に置かれている。(9番、12番、13番は曲集全体の中で最も難しいものに属しているけれども。)要するに、学習者(あるいは教師)は、番号順ではなくて難しさや取り組んでいる課題に応じて曲を選んでいく必要がある。全体として、ほとんどのエチュードは左手の課題のために書かれているので、学生のためにはいわゆるセブシックの"Forty Variations (op.3)"でこのポッパーの曲集を補うことをお勧めする。
 コメンタリーは、各エチュードに関連する課題を明らかにし、練習のための指示を提供することでその習得を促進させるものである。言うまでもなく、これらの技術的な助言や指示は唯一正統な解決法を表しているのではなく、多くあるうちの選択肢の一つに過ぎない。この二世紀の間に発展した様々なメソッドのために、今日の編集者もまたそのうちの一つの、あるいは複数のメソッドの特徴をもったり影響を受けたりしている。この意味において、「正しい」や「誤り」という言葉の意味を定義することは困難である。たとえ、あるものがチェロ技術や音楽的美学の全体的なシステムの中で「正しい」とか「誤り」に見えたとしても、そうである。それにもかかわらず、あるひとに「誤り」であるものが別の人にとっては「正しい」こともあり、またその逆もある。それゆえ、学習者はまず難しいパッセージや完全には習得できないパッセージにおいて、提示された方法に取り組んでみることである。その後で初めて、提示された方法が目下の課題のための実行可能な解決策であるかどうかを判断することが出来る。
 また、ポッパーのオリジナルのフィンガリングやボウイングのマークに加えられた多くの変更点についても説明している。ほとんどの場合においては、ポッパーのオリジナルのマークをコピーしている。ポッパーのキャリアを見れば、彼が晩年まで新しい挑戦や音楽的発展に対する興味を保っていたことが分かる。彼が音楽的要求に見合った新しい練習曲集の必要を認識していたという事実そのものが、その証拠である。今日のチェロ・レパートリーのほとんどがまだ作曲もされていなかったという事実を考えると、彼の曲集の独自で永続的な関連性は、今日的な視点からもよりいっそう重要なものである。もちろんここ数十年で、我々の楽器においても、その演奏技術、あらゆる年齢のチェリストへの要求、また一般的な演奏レベルにおいてさえもさらなる発展があった。偉大なチェリストだけがハイドンやシューマン、ドボルザークの協奏曲を見事に弾くことが出来た(そしてその演奏は確かに今日のソリストたちにも劣らなかった)ポッパーの時代とは異なり、今やほとんどすべての学生がそうすることが期待されている。多くの一流チェリストや教師たちは、バイオリニストやピアニストたちが100年前にそうしたように、フィンガリングやボウイングの技術の問題について熟考して来た。チェロ演奏の流派も生まれてきた。実際の所、チェリストの数に関しては、もはやチェリストは音楽世界における異国の少数派ではなくなったのである。
 しかし、ポッパーのop. 73のような作品を、過去の音楽や楽器の美学に関する博物館展示品にすることなく、その存在を守るにはどうしたらいいだろうか。これらの発展を正当に評価し、ポッパーが今日に生きていたらどう思うだろうかという質問に(最善を尽くして)答えることである。その場合、彼の言葉に忠実であろうとするなら(あるいは、彼の思想に忠実であろうとするなら)、ポッパー自身の考え方と慎重に折り合いをつけ、演奏家としてまた教師としての彼の才能を今日の言葉に翻訳し、そうして彼の作品を後世の人に残そうと試みなくてはいけない。このように考えると、この種の教育的作品に対しては、できる限りポッパーの意図に即した、曖昧でない解決策を生徒に提供し、学習者が時間と興味の許す限り、このテキストを使って原典への道を感じることが出来るようにすることが、編集上望ましいと思われた。その結果が、原典がそうであるように、個人的なものかつその時代に縛られたものにならざるを得ないのは、この作業の性質のうちにあるものである。
 純粋に音楽的価値のために書かれた作品について考えるなら、事態はかなり異なることに、むしろ正反対になる。そのような作品においては、演奏者は第一に作曲家の音楽とその感情的世界に従うことになり、自分の技術的能力の拡張という目標を追求するよりも、過去あるいは現在のイメージの再現をしなくてはならない。この場合、「テキストに忠実」というのは、作曲家の手稿を完全な正確さで、最後の一言一句まで、個人的あるいは現代的解釈を加えることなく再現するということを意味する。感覚的なアップデートが必要な音楽とそうでない音楽とを見分ける能力は、良心的な演奏家にとって必要不可欠である。
 すべてのテンポ・マークは編者の提案である。付け加えられている「プラクティス・テンポ」は、練習曲を習得した後で曲の質とコントロールを維持するために必要とされるテンポとして見るべきものであり、学び始めた時に要求されているテンポではない。
 各エチュードのコメントには、レパートリーの提案が続いている。これらはその性質上不完全ではあるが、少なくとも標準的チェロ作品を代表するものであり、生徒と教師が自らのレパートリーを見つけるように促すものである。言うまでもないことだが、関連する多くのパッセージのためには他のあるいは追加のエチュードが参考になるだろう。むしろ、この曲集の練習は、標準的レパートリーの多くにとって理想的ではない(例えば、ショパンのソナタ)。そのような場合、我々は多くの課題が扱われている"ten Grand Etudes of moderate Difficulty"や、Duport、Grutzmacher、Klengel、Merk、Piattiやその他の人々による標準的エチュード集の学習をお勧めする。エチュードのなかには、予想される通り、レパートリーにあまり多くの目立った参照すべきパッセージをもっていないものもある。これは、それらのエチュードが重要ではないと言っているのではない。それらは一般的なイントネーションとボーイングの技術の練習をするためのパターンであるということが多い(例えばNo. 25)。我々の提案するレパートリーのいくつかは、エチュードと参照作品の間に、一つかそれ以上の箇所に明らかな関連をもっている。そのほかのエチュードは、予備的なあるいは補足的な練習として用いることが出来る。作品の選択基準はエチュードごとに異なっており、左手か右手のどちらに焦点を置いているかによっている。スペースのために、小節番号や楽章は付けていない。またリストには室内楽やオーケストラのパッセージは含まれていない。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?