見出し画像

#79 大江匡衡のこと

 昨夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」で紹介もなくしれっと登場したのが、大江匡衡(おおえのまさひら)である。当代きっての漢学者として知られる匡衡は、漢詩を詠み合う曲水の宴にはもっともふさわしい人物であろう。何よりも妻である赤染衛門と同席している。夫婦ともに和歌・漢詩の達人として名を馳せていたが、おしどり夫婦としても知られており、匡衡衛門と通称されるほどに仲睦まじい様子が伝えられている。
 大江氏は、もともと古代氏族の土師氏の出自とされるが、延暦9年(791)、桓武天皇により大枝朝臣の賜姓を受けたことが始まりであるという。貞観8年(866)、大枝音人が大枝から大江へ改姓した。菅原氏と並ぶ学者の家柄として知られ、多くの歌人や学者を輩出している。「対策」という秀才登用試験に次々と合格することでも著名である。菅原道真の失脚後は、菅原氏を完全に凌いで朝廷の儒家の中心となっていった。
 大江匡衡は天暦6年(952年)に生まれ、15歳で大学寮に入り、翌年には寮試に合格している。天延元年(973)には省試に合格して文章生となり、天元2年(979)に対策に及第する。東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至る。匡衡は赤染衛門とともに一条朝で文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任らとの交流も知られている。ドラマの演出もそのような一場面なのであろう。赤染衛門は中宮彰子の女房でもあった。
 尾張国司に3度任命されており、大江川開削や尾張学校院の復興など地方における善政の象徴として扱われている。
 大江匡衡の曽孫が、八幡太郎義家に兵法を伝えたという大江匡房であり、平安時代を代表する大学者として語られている。匡房の曽孫が、源頼朝に仕えた大江広元であり、草創期の鎌倉幕府の内政を取り仕切っている。大江広元は広大な所領を得ており、子孫に公家もいるが、地方に下って武家となった家系が多くある。相模国愛甲郡毛利荘を本貫地とする毛利氏がもっとも有名であるが、出羽寒河江氏、越後北条氏、三河酒井氏なども知られている。諱の通字には広元の「広」や「元」が多いという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?